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ピアノ

 山手線の電車の中でさっきから夫婦が口喧嘩していた。

「あのさ、今言ったこともう一回言ってみ?」

「ああ、何度だって言ってやるよ。うちにはピアノなんか買える金ねえよ!」

「それってマジで言ってる?私がこんなに真面目に頼んでるのにさ、もし子供ができたらピアノ習わせたいなっていうのにさ、どうしてそんなバカにした顔で拒否るのよ」

「お前さ、そう言ってさも自分の欲しがるものにいかにもな理由くっつけるけどさ、お前なんでもかんでも続かないじゃん。乗馬だってたった三ヶ月しかもたなかっただろ?ピアノなんか買ってきたってどうせ粗大ゴミになるに決まってるだろ!こんなカタログ俺に見せてもムダ!いいから諦めろ!」

 夫は妻にそう言い放ち妻から渡されていたカタログを突き出した。妻は夫からカタログをふんだくるとドスの効いた声で言った。

「私今お前が言ったことパパとママに全部話すからちゃんと覚えとけよ!お前が私なんかどうでもいいと思ってるって全部洗いざらいぶちまけてやるからな!」

「何言ってんだよお前は!わけのわからないこと言ってんじゃねえよ!大体これは俺とお前の問題だろうが!お父さんとお母さんに迷惑かけんなよ!」

「パパとママに迷惑かけてんのはお前なんだよ!私を傷つけるってのはパパとママを傷つけたってことと同じなんだよ!今更ビビんじゃねえよ!」

 そう夫を怒鳴りつけると妻は丸めた思いっきりカタログを投げつけた。そしてたまたま止まっていた駅にそのまま降りてしまった。

 あまりに突然の妻の行動に夫は唖然として降車駅に電車が止まってもとても降りる気になれなかった。彼は先程妻が投げつけてきたカタログを膝から取って開いた。

 彼は電車がまた妻が降りた駅に留まるまで乗り続ける事にした。多分アイツは駅で俺が降りてくるのを待っているだろう。アイツはいつもああだ。何か欲しい時はああやって過剰に怒るんだ。そうしてから後でわざとらしくごめんなんて言ってくる。もう騙されはしないぞ。お前の手の口はバレバレなんだよ。実家に言いつけるなんて脅しも無駄だぞ!そうやってツンデレやったってもう何にも買ってなんかやんねえからな!今回はハッキリ言ってやる。そんなガキみたいなことをしても無駄だってことを。

 電車は再び妻の降りた駅に着いた。夫はすぐに降りて駅のホームを見回した。だが妻の姿はそこになかった。彼は心配になって妻に電話をかけたが、見事に着拒されていた。それから夫は日が暮れるまで駅中で妻を探したが、結局妻は見つからなかった。勿論家にもいなかった。


 明くる日、妻からメールが来た。今実家にいるから荷物を送ってこいという。彼女は最後に今回の事でつくづくあなたという人間が嫌になった。あなたが私やいずれできるであろう家族をまるで考えない冷血漢であることがハッキリした、両親には近いうちに離婚の意思を伝えるつもりと書いていた。夫はこれを読んであまりの理不尽さに唖然としたが、しかし文面に書かれた文言に彼女の強い意思を感じで震え上がった。もしかしてアイツ本気で離婚したいって思っているのか。夫は妻と話し合おうと思い、あえてこう書いた。「荷物なら自分で取りに来い。とりあえずお前が荷物取りに来るまではずっと家にいてやるから」この夫のメールに対して妻からはなんの返事もなかった。

 それから夫は有給を取って会社を休んでずっと妻が来るのを待っていた。しかし妻は全く来なかった。その間彼は電話やメールをなん度もしたが全く繋がらなかった。それでとうとう最後の一手として実家に電話をかける事にした。

 夫は妻の両親が苦手であった。二人は共に家柄のいい家の出身らしく妙に高圧的な所があった。彼は初めて妻から両親を紹介された際二人の見下すような目線に耐えきれずずっと恐縮していたものだ。なんとか結婚を許してもらえたが、未だに二人に対してどこか遠慮がある。ましてや今はこんな状況だ。電話に出るなり娘と離婚しろと言われたらどう返事をすればいいのか。

 電話に出た妻の父親は意外にも平静だった。父親も娘に呆れているようだった。「娘が突然泣き腫らして帰ってきて何事かと思ったらピアノ買ってくれないから離婚すると言ったんだよ。私と妻は呆れ果ててそんなバカな事で離婚するやつがあるかと叱ったのだが、娘はそれでも離婚するって言って聞かなくてもうどうしようもない。君他にあの子の気に触ることは言ったりしていないだろうね。もしかしたら君の普段の言動へのイライラが溜まって今回の事がきっかけで爆発してしまったのかもしれない。あの子は昔から異様にプライドが高くて他人のちょっとした言動に反応してすぐにイラつくんだ。まぁ難しいとは思うが気をつけてくれ」

 それから父親は娘を出すからと言って母親に娘を呼びに行かせた。電話から妻が叩いているらしいピアノのど下手くそな音が鳴り響いている。しばらくして父親は妻がどうしても出たくないそうだと言って謝って来た。夫は恐縮しこちらこそご迷惑をおかけして申し訳ありませんと電話口でひたすら頭を下げた。

 夫は電話で父親が言った言葉を聞いて日頃の妻に対する言動を振り返りたしかに妻が苛立つような所があったかもしれないと思った。確かにあまりにも多すぎるおねだりに対して耐えきれず声を荒げてしまうような事が度々あった。もしかしたらピアノのことだって妻は本当にいずれできるであろう子供の事を考えてピアノを欲しいと言い出したのかもしれない。それをろくに考えずにただの欲しがりだと決めつけて撥ねつけたのは確かにまずかった。夫は考えた挙句ピアノを買う事に決めた。ピアノは自分が将来のために貯めておいたへそくりでなんとか買える。とりあえずカタログの中から一番安いものを買おう。カタログは鞄の中にしまっているが、ブランド名は大体覚えているから店のホームページですぐに確認できる。夫は早速注文した。発送は意外に早く明日には届くそうだ。彼はピアノの注文を終えると早速妻にメールを送った。するとずっとガン無視だった妻からすぐに返事が返ってきた。

『ホントに?ちゃんとカタログにあるもの買ったのよね?』

 ああ買ったさと夫は妻に返事をする。だが彼はどのピアノを買ったかは秘密さと書き添えておいた。


 その翌日の朝一に配送業者がやってきてピアノをどこに置けばいいのかと聞いてきたので夫は荷物を空けておいた部屋に案内した。ここは全然使ってなかった部屋だが、これからはピアノが入る。アップライトピアノだが、この家にグランドピアノの置き場所なんてないから妻も許してくれるだろう。やがて子供が生まれたら妻と子で連弾でもするのだろうか。残念ながら自分はピアノが弾けないので連弾なんてする事は出来ないがだが二人の連弾を見て聴くことはできる。ピアノは無事に置かれ配送業者はでは失礼しますと元気の良い声をあげて去っていった。

 それから間もなくして妻から電話があった。今駅を降りて家に向かっているという。夫は電話を終えると掃除を始めた。ピアノ代はとりあえず分割で払う事になった。一括で支払うのは可能だが、何かあった際のことを考えてやはり手元に残した方がいいと判断したのだ。彼は掃除をしながら妻に対してどう声をかければいいか考えた。買ってやったぞなんて偉そうに言ったら妻はまた変に勘繰ってまた自分がバカにされたと怒るだろうか。それだったら笑みなんか浮かべてごめんなんて謝るべきだろうか。それは自分のプライドが許さない。そうして考えているうちにドアのベルがなった。妻が帰ってきたのだ。

 妻は家に入るなり嬉しさを隠すようにわざとらしい膨れっ面で「で、ピアノどこな?」と聞いてきた。夫は妻のつっけんどんな態度に呆れながらとりあえずピアノの置いてある部屋に案内した。そしてドアを開けて妻を部屋に入れたのだが、妻はピアノを見るなりいきなり怒鳴り出した。

「なんなのよ!これ!私こんなもの買えって言ってないわよ!」

 夫は妻の言葉に唖然とした。この女はどこまでわがままなのか。メーターが気に入らなかったのか、グランドピアノじゃなかったから怒ったのか。夫は妻に言い返した。

「なんだよその言い草は!俺はちゃんとカタログにあるピアノ買ったじゃねえか!高い金だして買ったんだぞ!」

「お前ちゃんとカタログ読んだのかよ!私こんなもの買えって言った覚えはねえぞ!カタログどこだよ!ここに持って来いよ!」

「バカヤロウ!このピアノはちゃんとカタログにあるわ!今から持ってきてやるから自分の目で確かめやがれ!」

 夫は撫然として部屋から立ち去りそしてカタログを持って再び戻って妻にカタログのページを見せながら言った。

「ほらちゃんとここに写真載ってるだろうが!人気の新型アップライトシリーズがここにって!」

 しかし妻は納得せず夫からカタログをぶんどるとページを指差してまた怒鳴った。

「バカはお前のほうだろ?全くどこ見てんだよ!私が書いたかったのはこれだよ!」

 夫は妻の指差す方を見て気がついてハッとした。そこにはこう書かれてあったのである。

『人気のトイピアノシリーズ新型登場。あの名門ピアノがついにトイピアノになった!』この文章の上に本物のピアノの大きな写真とそのピアノについての説明が長々と載り、その脇にカタログの商品であるトイピアノが申し訳程度に載っていた。

「このトイピアノが欲しくてずっと頼んでいたのにアンタ何故か拒否るからブチ切れたのよ!ああ!コイツ私とお腹の中の子供のこと考えてさえいないんだって思ってさ」

 夫はこのあまりにあり得ない勘違いに愕然とした。いやこのカタログ見たら誰だってまさかトイピアノだと思わんだろう。しかし妻はその後で大変な事を言った。まさか……

「そのまさかよ。私妊娠したのよ。だから私生まれてくる子供のためにトイピアノ欲しかったのよ!なのにこんなバカ高いピアノ買って支払いはどうするつもりなのよ!ああもう地獄だわ!」

 夫は妻を宥めようとピアノは自分のへそくりで買ったこと。それに分割で買ったので家計には全く問題がない事を言った。妻はまだ撫然としていたが、諦めがついたのかいきなりピアノ椅子に座って蓋を開けた。

「ったくしょうがないわねぇ!まぁいいわこれで。子供だけじゃなくて私もピアノ弾けるしお金はアンタが全部払うし。まぁ予想外のプレゼントとしてありがたく頂いとくわ」

 妻はそう言うと鍵盤に手を置いてピアノを弾き出した。夫はこのペダル踏みすぎのほぼ騒音に近い演奏を聴いて耳を塞ぎお腹の子供を本気で心配した。

 


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