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北酒場

 北の酒場には長い髪の女が似合うという歌詞の演歌があるが、現実はやはりそう上手くはいかないようで、僕が今いる北の果ての酒場には、客の僕と店主の親父しかいなかった。しかしそんな侘しい店でも熱燗をぐいっと飲み干したら心も体もあったまるというものだ。僕は熱燗を飲んで気分が良くなってきて、カウンターの親父に話しかけたくなった。
「親父さん、この店はいつからやってるんだい?」
「へえ、ここじゃあ、十年ぐらい。飲み屋自体は酒も飲めねえうちから始めて五十年ぐれえでさ!」
 えらく歯切れのいい江戸弁である。ここまで歯切れのいい江戸弁は滅多に聞かない。僕は親父にどこの生まれだと聞いてみた。すると親父はニッコリ笑いながら答えた。
「そりゃ、オイラはご先祖代々の江戸っ子よ!オイラのご先祖様は遠山の金さんの遊び仲間だったんだぜい!」
「その江戸っ子のあなたがどうしてこんな北の果てにいるんだい?」
 僕がこう言った瞬間親父は急にしゅんとしてしまった。僕はうかつな事を聞いてしまったと思い彼に謝ろうとした。しかし親父は頭を下げようとする僕に向かって再びニッコリと笑い、
「いいってことよ!謝んなくったって!そうだよな。変だよなぁ。オイラみたいな江戸っ子がこんな北の果ての海のそばで店なんざやってるのは。まぁいってみれば流されちまったのさ。東京から北へ北へと最初は茨城だった。その次は福島さ。それから岩手青森ときて、ついに辿り着いたのは北海道の荒波叩きつけるこの雪で凍った海辺さ。でもいいもんだぜ。こうして荒波の音を聞きながら飲む酒もよ」
 たしかに都会の喧騒から離れて孤独の酒を楽しむのも悪くはない。一杯また一杯と酒は進む。その時ガタンと店が大きく揺れた。その揺れのせいで何本か酒瓶が落ちて割れてしまった。僕はどうした事だと親父に聞いた。すると親父がニッコリして僕に言った。
「安心しろい旦那!ただ店のまわりの流氷が陸から離れただけだい!心配するな!」
 僕は自分が明らかに大変な状況に陥っているのを悟ったが、しかし親父が異様に落ち着いているのをみて、さすが人生経験豊富な男だ。こういう状況は何度も経験しているはずと安心し、彼に話しかけた。
「親父さん、アンタこういう事は何度も経験あるんだね?」
 その質問を聞いた途端親父は急に無表情になり、僕の顔をじっと見て一言こう言った。
「ない!」

 そう言った瞬間親父は急に胸を押さえて倒れ込んだ。僕は慌てて親父を抱えて胸に手を当てた。

 心臓はもう止まっていた。

 僕は店に親父の冷たくなった体を置いて外に出た。外に出るといきなり海が待ち構えていた。あたりを見るともはや陸地は見えず、ただ酒場を乗せた流氷は波に揺られて北へ北へと運ばれていた。僕はもう無我夢中で夜の海に向かって叫んだ。

「誰か早く助けてくれぇー!」

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