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vol.9 やさしさの真骨頂は、あらゆるものを受けとめられる「心の器」~やさしさを育むために必要な「4つのちから」~

本題に入る前に、執筆の意図や方向性、コンセプト記事をご覧くださいますと、より内容をお楽しみいただけるかと思います。

※以前に当記事の内容をご覧くださった方々へ
こちらのシリーズは、以前にアップしていた「やさしさを育むために必要な 4つのちから」とほぼ同じ内容ですが、読みやすさを考慮して分割したものになります。最終的にまとめ編として、以前の記事をそのまま再投稿する予定です。


前回までのまとめ

第1回 人の心を助けるやさしさとは?
第2回 自分にやさしくすると、他者にやさしくなれないのはなぜ?
第3回 矛盾だらけな気持ちに翻弄される私たち
第4回 忍耐しがたい事情と対応策
第5回 想像力を培うことの副産物
第6回 思いやりを精神論ではなく「スキル」で捉えてみる
第7回 思い込みのメガネを外す勇気「自己理解と他者理解に至るまで」
第8回 洗練されたやさしさを生み出す洞察力

私が想うやさしさの本質は「時に、自分よりも他者を優先する思いやり」である「建設的で意図的な、美しい自己犠牲」だと捉えているのですが、自己犠牲の扱い方によっては、ただただ苦しいものになってしまう現実があります。

おそらく、他者のためにがんばっても報われない悲しみを目の当たりにした方々が、「自己犠牲はやめたほうがいいよ」と声を上げ、いつしか当たり前のように多くの場所から聞こえてくるようになったのではないかと思いますが、しかし、「自分を差し置いてでも困っている人に手を差し伸べる」という発想が世の中から薄れてしまうというのは、逆に言えば「自分が困っていても誰も助けてくれない」事態を招きかねないと考えます。

そうなると、ますます、各々の余裕が失われてしまい「自分のことで精一杯だから、他者にまで気持ちをかけられない」と訴える人が増えることになり、どんどん殺伐とした社会になってしまうのでは…と懸念しています。だからこそ、あえて「他者のために」という、利他の精神の必要性を呼び掛けたいと思いました。

これらを踏まえて、つまり当シリーズでお伝えしたいことは「自己犠牲の扱い方」だったのですが、あくまでも「建設的で、意図的に」という部分がポイントで、実際に行動に移すためには「忍耐力・想像力・洞察力・包容力」が必要だと考えており、私はこれを「やさしさを育むために必要な4つのちから」と呼んでいます。

1:ぐっとこらえて!忍耐力
2:視点を増やして!想像力
3:本当のところは?洞察力

第8回までは、この3つのちからをあらゆる角度から紐解いていきました。

ぐっとこらえること、たくさん想像することを繰り返し行うことで、「なるほどね」の数を増やし、その納得感が自分を楽にさせ、さらに、忍耐と想像を継続しやすくさせるというお話をしました。

このような地道な過程を踏み続けることは、言い換えるならば「理解の姿勢を持ち続ける」ということで、そのうち「真実に近い私たちの答え」を感じ取れるちからが身に着き、結果的に、誤解やすれ違いが起こりづらい建設的なコミュニケーションを図ることにつながると考えています。

加えて、この営みを「あえて」選択できるか否かを分けるものは、「なぜ、やさしくあろうとするのか」という「美しい自尊心」を自覚するかどうかの部分だと捉えており、この考え方次第で、思いやりを発揮するための強い動機付けになると思っています。

「自分に恥じない生き方をすることが、自分を大切にする」という可能性を見出せる時、いよいよ「自分も含めた他者のしあわせを願う心」を現実化させるタイミングであると考えています。これが「美しい自己犠牲」に発展するというお話でした。

ところで、どうしてこの考えが「自己犠牲」として扱われるのでしょう。他の表現でもよかったのではないかと、思われるかたがいるかもしれません。

疑問を残しながらも、ここで、いよいよ4つ目のちからが登場します。

4:受けとめられる包容力

一体、何を「受けとめる」のでしょうか。

これらの問いの答えをイメージしながら、「やさしさを育むために必要な4つのちから」の最終ステップについて、ご一緒に考えてまいりましょう。

建設的で意図的な、美しい自己犠牲の正体

やさしさの種に気づいて、しっかりと根付かせることで「美しい自尊心」という花が開き、この気高い心が「建設的で意図的な、美しい自己犠牲」に発展するということでした。

ここでは、美しく咲かせた花を「その後、どのように活かしていくか?」というお話をしたいと思います。4つのちからの最終ステップである、「包容力」にあたる部分ですね。

真骨頂を語るとは言え、小難しい説明は必要ありません。
なぜなら、これまでの3つのステップを踏むことによって、すでに質の高いやさしさが育っている段階だからです。

ここで、今回のお話の「意図」を振り返りたいと思います。そもそも、やさしさを育むことの目的とは、一体何だったのでしょうか。
ぜひ、シリーズの冒頭部分や、コンセプトを思い返してみてください。

「やさしさが人の心を助け、癒し、安心感をつくる」

多くの人が安心して生活するためには、自分のことだけではなく、他者の存在を慮ることが必要という考えをお伝えしてきました。

「思いやり」を表現し合うためには「建設的なコミュニケーション」がカギを握っていて、これはつまり、「やさしさを贈り合うこと」を意味しているということでしたね。

やさしさを贈り合うためには、時にぐっとこらえてガマンせねばならないこともあるし、たくさん想像力を働かせて面倒な想いをすることもあるけれど、それは巡りめぐって自分にもとびきりやさしくなれる「価値のあるもの」に成長するということでしたね。

つまり「建設的で意図的な、美しい自己犠牲」の正体とは、がんばって咲かせた尊い花を贈り合うために、時に痛みを感じながらも「やさしくあろうとし続ける営み」そのものだと言えるでしょう。

やさしさとは「なろうとするもの」ではなく、少しずつでも確実に、「おのずと育っているもの」ではないでしょうか。

あらゆる形のやさしさを受けとめられる「包容力」

やさしさが大きく育まれるまでには、様々な経過が見られます。

他者にやさしくなれないほど、一生懸命にがんばっている自分に気づくこともやさしさです。自分にガマンさせてでも、他者に尽そうとがんばることもやさしさです。

やさしくなれない自分に苛立って涙するのも、やさしさです。他者からやさしくされないことが悔しくて涙するのも、やさしさです。

自分が与えたいものを与えようとすることもやさしさです。他者が本当に欲しいものを与えようとすることも、やさしさです。

そして、こういった「やさしさ」を、すべて受け容れることができるのも、やさしさです。

まさに、これが「包容力」です。
包容力とは、自分や他者をまるごとやさしく受けとめ、包み込むことができる「あたかかな心の器」と言えるでしょう。

だから、それが必要だと思うシーンでは、時に自己犠牲も厭わないのです。
というか、「おのずと自己犠牲という状態になっている」と言えるかもしれません。

他者を慮って様々なことに理解を示せるようになると、どうしてもたくさんのものを抱えることになります。わかってあげたい気持ちが強ければ強いほど、わかってあげられないもどかしさを感じることでしょう。

たくさんの容量を有する器は、たくさんのお水を受け容れることができます。ところが、たくさんのお水を抱えれば抱えるほど、なかなかすべてを受けとめてもらいづらい現実があります。

これを理不尽と言ってしまえば、そうなるのかもしれません。
こんなもの面倒なだけだと言ってしまえば、いらないものとして扱われるのも無理はありません。

何を選ぶかは自由です。だからこそ、すすんで「時に理不尽と思えるようなやさしさ」を抱えることに、価値があるのではないでしょうか。



「建設的で、意図的に」

たとえ、一時的に損な役回りになったとしても。
たとえ、たくさんのものを抱えることになったとしても。

できることを、できる範囲で。
重みに耐えるための創意工夫をして、自身のケアを行ったうえで。

自分の幸せのなかに、他者が存在しているという可能性を見出して。
いつか、わかり合える日がくると希望を持ち続けて。


「美しい自己犠牲」

大切に育んできたやさしさを、積極的に与えること。
苦しみを感じながらも、気高い心が育っていると信じること。


「建設的で意図的な、美しい自己犠牲」

この価値に気づき、心を開くことは、巡りめぐって自らが住みやすい環境をつくり出すことになるでしょう。


「みんなでやれば、大丈夫」

なるべく多くのかたが、ありのまま、自然体で、やさしさという美しい花を贈り合えるように。
なるべく多くのかたが、すすんで取り組まれることを願っています。




あとがき

以上で、やさしさを育むために必要な「4つのちから」が完結しました。

冒頭でも少し触れましたが、わざわざ「自己犠牲」というワードを選んだ理由とその背景を、いずれ、anotherstoryのなかで真意をお伝えできればと思っています。

また、第9回までの内容を総集編としてアップする予定なので、本のようにまとめて読むほうがしっくりくるかたは、ぜひご覧になってくださいね。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
他の記事もよろしければ見ていってくださいね!

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