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vol.3 いろんなかたちの “癒されたい人たち” ~いくつになっても育て合い「おとなの子育て理論」~

こんにちは。あゆみです。

「大人の子ども心を癒しあって、やさしい世界をつくろう」というメッセージが込められている「おとなの子育て理論」シリーズも、第3回に突入しました。いつも読んでくださってありがとうございます😊



先にお伝えすると、今回のお話は、ちょっぴり(5キロのお米くらい?)ずっしり重ためです。各々の状況によっては「しんどいな・・・」と思われるかもしれないので、その場合はそっとクローズしてくださって大丈夫です。無理に食べさせようと思っていないので、ご安心くださいね。

なるべく食べやすいかたちにコネコネしますが、上記、あらかじめご留意くださいませ。


▲情報の扱い方について語っています。受け取るタイミングは自由だよと言ってます。


▲まだのかたは、はじめにお読みくださいね。






前回までの振り返り



大人の子ども心を癒し合うことで、社会課題につながる「困りごとの種」ではなく、安心感から生まれる「信頼の種」を発芽させて、ひとりでも多くの人がのびのびと暮らせる「やさしい安全基地」をつくっていこうというお話をしてきました。

まるでネコちゃんの「へそ天(おへそを空に向けて眠る様子)」のように、身も心もなげだして安心しきっているような、他者との盤石な信頼関係を築くことを目標にしたいということでしたね。

しかし、現実に目を向けると、わかって欲しい人にわかってもらえることばかりではなく・・・もどかしさや、さみしさを抱えているかたにとっては、気持ちの面ではなかなか割り切れないこともあると思っています。

だからこそ、まずは大人同士であたたかい気持ちを向けあうことが大切ですし、その影響を受ける子どもたちや地球上で暮らす生き物たちにも、やさしさの恩恵がもたらされるという「おとなの子育て理論」が、ちからを発揮してくれるはずだというお話でした。


今回は、本シリーズで扱う「社会課題の中身」である、子どもごころをこじらせた結果に起こりうる「困ったぞ・・・」にふれていきます。(ちょっとおセンチな話をするので、2話にわたってふかふかのクッションを敷いてました)



インナーチャイルドとアダルトチルドレン



「大人の子どもごころを癒しましょう」と聞いてイメージされるのは、おそらく「インナーチャイルド」とか「アダルトチルドレン」という言葉ではないでしょうか。

一つひとつ言葉の意味を確認してもいいのですが、本シリーズはあくまでも「未来志向型」なので、原因追及することを目的としていません。そのため、言葉の意味としては「なんとなくわかるよ」でOKだと思っています。


子どもごころが癒されていないことによって、大人になってからもプレイフルに振舞えていない状態であること。


このように定義しますね。

つまり、私にも身に覚えがあるのですが、なんらかの事情によって「子ども心をこじらせている」と解釈いただいて大丈夫だと思います。


ここで颯爽と現れるのが、「アダルトチルドレン専門カウンセラーさん」や「インナーチャイルドを癒すセラピストさん」たち。SNSなどでもよくお見かけするように思います。

その他にも、世の中には、あらゆる専門性をもったカウンセラーさんや対人援助職の方々が、今この時も「誰かの居場所」をつくるために活動されていますよね。もれなく私もそのうちの1人なのですが、そもそもどうして、「プレイフルに振舞えないこと」を癒す必要があるのでしょうか。

なにも困っていなければそのままでいいのかもしれませんが、やはり「困ったぞ・・・」があるから、どうにかしたくなるのだと思います。だから、「なにに困っているのかな?」を考えると、「生きづらさにつながっているから」という理由がありそうです。


◇◇◇◇◇


「言いたいことも言えない こんな世の中じゃ・・・」という有名な歌がありますが、子どもらしく自由に振舞えないことによって、様々な感情や衝動を内側にため込むこともあると思います。出せないでいると「お腹いっぱい・・・くるしい」と、なるのも不思議ではありませんよね。「食べて消化して排泄する」のは、快適さの3点セットなのです。(ちなみに、私は「出す」のが苦手です・・・だからnoteで発信できるのはありがたい)

安心して自分をさらけ「出せる」場所があるといいのだけれど、なかなか難しい事情があると、生きづらさにつながることがあるのかもしれません。


また、このような捉え方はどうでしょう。


「加減がわからなくて『出しすぎて』しまう」


果たして、出しすぎてしまうと、どうなるのでしょうか?これも、社会課題について考えるうえで欠かせないお話だと思っています。



見る角度で変化する「癒されたいひと」



「言いたいことも言えないなんて・・・」と思った結果、「よし、言いたいことを言ってやるぞ!」とふるい立ち、世の中や他者に「わあぁぁー!」っとシャウトすることもあると思います。

歌や作品で想いを表現するアーティストさんは、こういった「魂の叫び」によって、世の中に感動の渦を巻き起こしてくれますよね。だから「わあぁぁー!」っと気持ちをあらわにすることも、素敵なことだと思っています。(noteでの執筆活動も健全な昇華方法だと思います)


考えたいのは、この「わあぁぁー!」を、分別のある枠組みで行うのではなく、ところかまわず思いのままにやってしまうことにあるのではないでしょうか。例えば、職場や家庭、SNSなどで見かける「困ったぞ」のあれこれです。

あんまり直接的なお話をすると、しんどいな・・・となってしまうので、遠い目をして、ふんわりと察してもらいながら続きをお読みいただきたいのですが。(もちろん、シャッターをガラガラピシャンしていただいても構いません)


「出す場所」や「出す加減」がわからないというのは、まるで子どもさんがスーパーで飛行機ごっこをしながら、「ブーン!」と両手をひろげてかけまわり、しゃがんでおやつを選んでいるお友だちに気づかずぶつかってしまうようなイメージが浮かびます。本人にとっては無邪気な振る舞いに過ぎませんが、悪気はなくとも「わーん」って泣かせてしまいますよね。

もしくは、わざと「おまえのかあちゃん、で~べそっ!」とケンカを売ったり、オモチャをよこどりしたり、好きなあの子にスナオになれず「あえて」怒らせるようなことをする・・・などもありそうです。

これって、大人の世界でも同じようなことが起こっていると思いませんか?


さすがにふんわりしすぎて「なんのこっちゃ?」になるかもしれないので、もう少し具体的にしますね。

つまり、わざとかどうかに関わらず、誰かをモヤッとさせてしまう大人も「子どもごころをくすぶらせている」と、読み解けるというお話です。


「インナーチャイルドさんやアダルトチルドレンさん」は、積極的に「癒されるべき存在である」と認知されているのに対し、なんらかの事情で子ども心をこじらせてしまった「暴れんぼうさん」は、否定的な対応をされる現実があるように見えるのです。


様々な事情を抱えておられるかたが読んでくださっていることを想像すると、一概にどうこう言いたくないですし、正解は人の数だけ存在しているので、あくまでも「『社会課題に対する』私個人の思想や考えにすぎない」のですが・・・両者は本質的に同じ要素があると捉えています

本質的には限りなく近しいものなのに、片方は「ケアが必要だ」と言われ、もう片方は「面倒だから離れよう」と言われていることに「うーん・・・?」と、違和感を抱かずにはいられませんでした。まさに、至る所でささやかれているお話を、私自身が飲み込めなかったということです。

例えば、「いじめっこにもカウンセリングが必要だ」と言われるようなイメージで今回のお話を解釈しているのですが、これは綺麗ごとではなく、リアルな解決策のひとつではないでしょうか。


「出しすぎてしまう」のは、出し方がわからずに溜め込みすぎて溢れ出してしまうこと。「出し方がわからない」のは、出すという経験が少なくて学ぶ機会が得られにくかったこと。また、出し方をレクチャーされなかったこと。このような事情がある気がします。


そのため、「出せなくて困っている」かただけではなくて「出しすぎて困っている」かたも、等しく「子どもごころを癒したい人たち」だと受けとめる必要があると思っています。


あんまり食べたくないものまで、自分でどうにか消化するためにがんばっているかたは前者。がんばっていたけれど、どうにも対処しきれずに「子ども心の痛み」が、もれ出してしまったかたは後者。大まかにですが、このように解釈しています。

私はおおよそ前者に該当しますが、抱えきれずにもれ出したものもありますし、それが、生きづらさが自分へと向かう「精神疾患」というかたちで表されたのだと理解しています。


「ともに抱えてくれる他者の存在があったかどうか」「自分で抱えられるための『何か』があったかどうか」という、ほんのちょっとの大きな違いによって、これらは変わってしまうような気がするのです。


いま、「離れたほうがいいよ」と言われている人たちにも、理解を示してくれるかたがいたならば。心配して、積極的に手助けしてくれるかたがいたならば。私を含めて、誰もが思わぬところでつまずいて転んでしまうことがあるからこそ、複雑な気持ちになります。

生まれたての赤ちゃんは、泣いて笑って純粋につながりを求めていますよね。みんな等しく、そこからスタートしましたから、きっと「好きこのんで、しんどい想いをさせたり、しているわけではない」と思うのです。


まるで綺麗ごとのように聞こえますし、目を背けたいことや許せることばかりではない現実がありますが、だからこそ、多くの人の「心の安全基地」が必要だと思っています。しんどい人を増やさないためにも「大人同士で子ども心を癒し合う視点」を持ち続けたいと思って、このお話をさせていただきました。



理解のまなざしが安全基地をつくる



社会課題についてお話しすると、どうしても「ボリュームたっぷり味は濃いめ」になってしまいます。書いて、見直して、修正して・・・。どう表現するといいのかなと考えてたら、まるで5キロマラソンを走り終えたあとのような気分です。レモンでスッキリいたしましょう。


今回のお話のポイントは、こちらです。

生きづらさが「自分」に向いているのか、「他者」に向いているのかという違いはあれど、等しくケアが必要という視点をもつことで、助かる人が増えていくはず。


やさしい世界をつくるためには「やさしくなれない人を知ろうとすること」が必要だと思っていますが、綺麗ごと抜きにして大変なことだからこそ、できる人からできる範囲で・・・という、やさしさのクッションを敷くのも忘れたくありません。ムリは禁物です。(いろいろ言ってますが、もちろん無理がきかないのは私も同じです)


◇◇◇◇◇


頭で理解できても、心が動かない。心は動くけど、身体が動かない。今の時点で目標にしているのは、後者です。少しずつ確実に、安心感の苗を育てていきたいのですが、まずは心が動くことで、おのずと「理解のまなざし」で自分や他者を見られるようになると思っています。


「どんな人と、どんなふうに」

「受けとめあって、育てあっていくのか」



今回のお話は、「子ども心を癒す対象者」の範囲を広げることが目的でした。少しでもなにかをお届けできていればうれしいです。

次回は、具体的に「助け合うこと」にスポットを当てて、ホッとする安心感を散りばめながら、思わず身体が動き出しそうになるお話がしたいです。よろしければ、ご覧になってくださいね。


ともにマラソンを走っていただき、ありがとうございました😊



◇◇◇◇◇


【お話の消化吸収をたすける処方箋】

ぐっとこらえて、たくさん想像して、本当のところを見つけて、あたたかく受けとめ合う・・・まさにこれが「社会課題と向き合うちから」であり、「ひとりでも多くの人の安全基地をつくる」ことの助けになると信じています。

マジメな顔して真剣に語る系なので、まずは他の記事でいっぷくしたり、お散歩したり、胃袋にクッションをしいてから摂取されるのもいいかもしれません。お好みでどうぞ。





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