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評価をしない教育

学生時代や社会人になった後でも、「評価」はほぼ一生付き纏います。
評価は、文字の通り、「価値を論じ定める」行為のことを指し、
高い評価を受け続ける事によって、社会的にも優位になる
という仕組みが大なり小なり、この世の中にはあると考えています。

私には2歳の娘がいて、どのような教育を受けてほしいか
ということを考える機会が多くなりました。

先の話ではありますが、これから彼女が大きくなった時に
どのような大人になってほしいという事から逆算して、
家庭内の接し方を考えています。
そして、家庭外の要素も環境要因として彼女に与える影響が大きい
と考えているため、家庭内外含めて、環境への影響を考慮に入れた
学習環境を設計しようと考えております。

では、冒頭に記載した「評価」はどういう関係があるのでしょうか。
評価は、前述に記載したように、人と人の差異を明確にする事によって、
順位や優先度を定めることができるある種のツールだと考えています。

もちろん、「自己評価」という言葉もあり、
自分自身を高めていく為に自分が定めた評価指標(評価軸)で、
自身を評価する事により、次のアクションに対する補正ができる
仕組みもありますが、世の中における評価の大多数が、
「他者評価」という従来型の評価だと考えています。

「他者評価」の何が課題かというと、他人が定めた評価指標をもって、
差異を定め、順位付けされることによって、
他者が作った軸で評価されようとすることを私は危惧しています。

何か行動をして、うまくいったら褒められるというのは、
子どもからすると嬉しいことですが、その行動の基準を定めているのは、
「他者」です。「自分」ではありません。

その為、私は娘に最低限生きていく為に困らない経験・知識・知恵こそ
与えたとしても、「自分軸」で、ある意味「自己中心的」と
他者とのバランスが取れる子どもに育ってほしいと思って、
今の所、押し付ける教育方針やよっぽど危ないことをしない限りは、
怒ることもしていません。

また、他者評価の行き着く先は、「自分のやりたいこと」ではなく、
「他人がこうなってほしい」他者軸の序列が存在していると考えており、
分かり易い所で言うと、東大理三からの医者を仮に頂点とすると、
その学力を基準とした序列で、ナンバリングされ、
自分の進むことができる幅が決定されると考えています。
そして、「自分のやりたいこと」は我慢せざるを得なくて、
「他者の求めていること」に応える、他者軸の人生になると考えます。

また、序列で考えていた進路に進めない場合は、
コンプレックスを抱いたりする場合もあると考えています。
それはその人にしこりを残す事で、少し勿体無いことではないでしょうか。

では、この螺旋から抜けるにはどうすればいいのでしょうか。
簡単に言うと、「レールから外れる」と「評価を受け入れない」の
2つが重要だと考えています。

前者の「レールから外れる」と言うのは、
学力などの評価軸から外れた選択肢を取るということです。
例えば「絵画」「スポーツ」「音楽」、その他なんでもいいのですが、
子ども自身が「自分が心からワクワクするもの」を軸として持っておくと
それを一生の趣味であれ、仕事であれ、突き詰めることこそが
人生の楽しみに繋がると考えており、
学力やステータス、収入といった枠以外の「軸」を持つことで、
自分が自身にとって「納得のいく」人生を歩むことができると考えており、
いい高校、いい大学、いい就職先といった一定のレールから外れると、
ある意味「自分軸」で生きやすくなるのかなと考えています。

私自身、病気になって障がいを持つまで、
分かり易くレールの上を走り続ける人生を歩んでいましたが、
一度、最低時給のアルバイトすらできない状態になってからは、
若干、気が楽になったという自身の経験に基づくものであったりします。
今では「レールから外れてラッキー!」ぐらいに思っていたりします。

私も娘にはレールから外れた自分の人生を歩んでほしいと願っています。

では、後者の「評価を受け入れない」とはどういうことでしょうか。

単純に言うと「鈍感力」や「(意図的に)気にしない」という
ある種の方針というか能力に近いものではありますが、突き詰めると、
「自分には自分の良い所がある」と「自己肯定」ができることを言います。
その背景には、前述にお伝えした「自分軸」が大切だと思っていて、
「大好き!」を突き詰めていることが前提条件になるのかもしれません。

もしかすると、教師からすると反抗的に見えるのかもしれませんが、
個人的にはそれでいいと考えています。
私は中高の授業中は数学以外、ほぼずっと寝ていましたが、
その時得意だった「数学」という絵を描くような芸術的な世界が
私を今に引っ張ってくれていると強く心から信じています。

結果、私が言いたいこととして、
「他者軸」でなく「自分軸」で生きることが本当に大事なことで、
そこには「他者の評価」は介在せず、自分が自分で認めることだけが
存在すると考えています。
つまり、「(他者)評価をする教育」には大した意味がないと考えており、
教育には(他者)評価は不要とすら考えています。

教育は学校だけでするものではなく、家庭でも、その他の場でも存在し、
よりよく、自分が自分らしく生きる為に歩める手助けが今後もできると
いいなと思いました。
そのような時代の「教える側」「伝える側」の価値はなんでしょうか。
むしろ、その「側面」自体が存在しているのでしょうか。
少なくとも私は「背中を見せるかっこいい親」でありたいと思いたいし、
「自分が決めた道」を突き進む自分でいようと信じて進もうと考えています。

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