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逝く夏に思う(小さな楽曲分析)

並木の梢(こずえ)が深く息を吸って、
空は高く高く、それを見ていた。
日の照る砂地に落ちていた硝子(ガラス)を、
歩み来た旅人は周章(あわ)てて見付けた。

山の端(は)は、澄(す)んで澄んで、
金魚や娘の口の中を清くする。
飛んで来るあの飛行機には、
昨日私が昆虫の涙を塗っておいた。

風はリボンを空に送り、
私は嘗(かつ)て陥落(かんらく)した海のことを 
その浪(なみ)のことを語ろうと思う。

騎兵聯隊(きへいれんたい)や上肢(じょうし)の運動や、
下級官吏(かきゅうかんり)の赤靴(あかぐつ)のことや、
山沿(やまぞ)いの道を乗手(のりて)もなく行く
自転車のことを語ろうと思う。

(中原中也 「逝く夏の歌」)

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閉館ぎりぎりに図書館を出たら、もう夕焼けが終わっていた。
「先週まであんなに日が長かったのに」
湿気を含んだ空気は決して涼しくはなかったけれど、夕暮れの早さや雲のちぎれ具合は、秋を、九月を感じさせるのだった。

夏が終わる。
先日の記事で、感情を揺れ動かすものから意識的に離れている、というようなことを書いたが、夏の終わりにはこの曲を聴かずにおれない。

明治から昭和にかけて、どこか異国の風を感じさせる詩を生んだ詩人、中原中也。フランス詩への傾倒や宮沢賢治との親交などの影響からか、冒頭の詩のような、指の隙間からこぼれ落ちそうなつかみどころのない言葉遣いが特徴である。

さて、この曲。詩の背景には詳しくないので内容の解釈はさておき、音楽として好きだ。冒頭の、うっとりするほど澄んで寂しげなメロディーライン。中間部の長いヴォカリーゼは、前半のメロディーを四声で掛け合ったあと、二拍三連でアレンジされる。そしてもう一度、歌詞とメロディーが繰り返される。

YouTubeで検索するといくつか演奏動画が出てくるのだが、わたしがこの演奏を良いなと思い取り上げた理由のひとつは、テンポだ。
楽譜の速度記号はLarghetto、四分音符≒56である。この動画の演奏は、本来の速さと異なり、少し速い。でもこの演奏を聴いたあとに、楽譜通りの速度の演奏を聴くと、なんだか「もったり」して聴こえてしまうのだ。
リボンが風に舞うさま、絶え間なく打ち寄せる波(浪)の様子は、わたしにとってもっと軽やかである。そしてこの詩全体に漂う、どうしようもなく流れる寂しさ、色あせていくことの止められない過去をただ遠くから見つめる乾いた感情、そんな時間の流れを表すにはある程度の速度があるほうが似合うと思う。個人の好みの域を越えないけれど。

パートのバランスも好みだ。ソプラノが大きすぎないのがいい。
この曲は、ソプラノ・アルト・テナーの三声が同じレの音で歌い始める。そしてソプラノとアルト・テナーの反進行で進み、リボンの「リ」でソプラノとテナーが2度でぶつかる。ソプラノが大きすぎると、最初のこの2度のぶつかりが消されてしまう。2度の微妙な不穏さがなくなってしまうのだ。
また、随所に掛け合いが施されているのが特徴だが、それぞれのパートの言葉がきちんと聴きとれるのがいい。
バスが加わり、音楽に安定感と重厚感が出る。そして「そのなみのこと」でまた三声になるときの、急なこころもとなさがいい。思い出ははかないよ、地に足のついたような安心を振り返って求めるなんて、そんなことやめたほうがいい。そう言われているみたいに聴こえる。

「語ろうと思う」の後に続く中間部のヴォカリーゼは、きっと長い回想のような語りなのだろう。
思い出はあちらこちらへ行ったり来たり、目まぐるしい。調号の変化は景色が変わるさまを表現しているのか。
歌詞はU(ウ)からA(ア)に変わり、景色は一段と開ける。二拍三連の動きは優雅なワルツを思い起こさせ、思い出も黄昏の色を帯びて見えるようだ。
速度記号はpocp a poco accelであることから、感情の高まりも感じられる。四分音符≒69、全パートフォルテ、音の強調、そしてソプラノはこの曲での最高音「ソ」が出てくることから、急な高まりの最高潮はこの部分である。海に夕陽が沈む直前のようなオレンジ色を感じられずにいられない。
そしてすぐその後の静けさ。いったい何を語ったのだろうかと、その静寂のなかで思う。

最後、メロディーの再現が行われる。和音構成は同じだが、強弱記号はピアニッシモからメゾピアノのあいだのみである。全体に静かな動きで、すべてが収束、終焉に向かっている。最後はソシレの安定した和音で終わる。

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たった三行の詩を、ここまで鮮やかに彩り、感情に緩急をつける。
見当違いな解釈であることはさておき、「逝く夏」は少し寂しくもあるけれど、思い出がこんなに宝石のようならそれでいいんじゃないかと思う。波にさらわれて見えなくなるのを、ただ眺める夕暮れがあってもいいと思うのだ。

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