見出し画像

「関係」と「つながり」を探る

おそらく流れで話している言葉だからなのだろうが、最近よく見ている研修動画で、ずっと気になっている文章がある。

「この方法を使えば、売り手と買い手、どちらも良い関係を築いていくことができます」

というもの。
前後の言葉の変化はあるものの、この文章はその動画内で幾度となく繰り返される。
何に違和感を持ったのだろう?

おそらくわたしは、
「どちらも良い関係を築いていく」
という文言に違和感を持ったのだと思う。
「関係」とは、そもそも自分と相手がいて成り立つ概念であるから、「どちらも」は不要なのではないか?
例えばこの文章だと、
「売り手は、良い関係を築いていくことができます」
とすると違和感があるのではないか。

というわけで、いったん「関係」という言葉について調べてみた。

1、 二つ以上の物事が互いにかかわり合うこと。また、そのかかわり合い。
2、あるものが他に対して影響力をもっていること。また、その影響。
3、人と人との間柄。また、縁故。
4、性的に交わること。
5、(他の名詞の下に付いて)その方面。そういう領域。

goo辞書より

4、5は今回の文章には無関係として、1~3の意味で考えてみる。

1はわたしが予想していた定義である。「二つ以の」「かかわり合い」を意味するので、「どちらも」という言葉は不要に思える。

対して2は、あるものがもたらす影響力という意味のようである。例文として「気圧の関係で耳鳴りがする」「国の将来に関係する問題」が挙げられている。
今回の文章はこの意味でつかわれてはいなさそうだが、「お互いが良い影響をもたらすよ」という意味で捉えれば、誤用というわけではないのだろうか?

3は「友好関係」「親との関係」などのつかわれた方をした際の意味である。この文章からは外れているかもしれない。

動画内の文章をわたしにとって違和感のないものにするとすれば、
「売り手と買い手、どちらも満足できる関係を築くことができます」
「売り手と買い手がWin-Winの関係を築いていけます」
だろうか。

☆☆☆

この文章に違和感を持ったのは、おそらくもうひとつ、最近引っ掛かっていた言葉(文章)があるからだ。
それは
「つながりを感じてもらえたら嬉しい」
というもの。
よく目にする、耳にする文章だと思う。芸能人やミュージシャンなど有名人がファンに対してこのような言葉を掛けているのを、一度は目に(耳に)したことはあるのではないだろうか。

最近何度か続けて、この類の文章を読み、耳にした。いわゆる有名人ではないけれど、わたしが個人的に慕っているひとの制作物からである。
例えばそのひとの動画は、不特定多数とまでは言わないまでも、そのひとが名前や顔を把握できる(している)人々が見ているわけではない。どのくらいの規模の人数が見ているのかはわたしには不明だが、そのひとがまったく知らない他人もかなり含まれていると思う。

そんなひとからの「つながりを感じてもらえたら嬉しい」の言葉。
本当にそう思っての言葉なのだと思う。でも、どうしてもしっくりこない、澱のようなものが残る気持ちになるときがあるのだ。

例えば、わたしはnoteのフォロワーさんがいてくださることをとても嬉しく、ありがたく思っている。
ときどきふと、「みんなもいま書いているのかな」なんて考えたりする。災害や事故があったとき、「○○に住むフォロワーさんがいたよな、大丈夫かな」と思ったりする。要するに、ふとしたときに思いを馳せているのだ。そして、元気でいてほしいな、書き続けてほしいな、と願う。これらはわたしの本当の気持ちだ。

でも、わたしが「みんなが元気で書き続けてほしい、とこころから願っています」と書いたところで、いったいどれだけ伝わるのだろう。
おそらく「ふうん、まあそうだよね、ありがとう」くらいに受け取るひとがほとんどで、「わあ、ウオズミさんはこんなにわたしたちフォロワーさんの健康を祈って、書き続けてほしいと願っているのか、ありがたいなあ、うれしいなあ」などと思うひとはほぼいないだろう。「いやウオズミにそんなこと願われても。見たこともない他人から気持ち悪い」と受け取るひとも、いるかもしれないがそう多くはないだろう。

推測するに、ありがたがるひとも気持ち悪がるひともおそらく少数であろう。それはウオズミのことが好きとか嫌いとかが関係しているのではなく、ウオズミの願いを「自分ごと」として捉えるひとは少数だからであろう、ということだ。
どんなに混じりけのない本心のかたまりだったとしても、わたしが多数に向けて願ったことは、多数に向けた時点で拡散し、届いた先では輝きをうしなう。どんなに丁寧に紡いだ願いだったとしても、それは誰でも何度も聞いたことのある、ただ耳に心地よいだけの通り一遍の願いごとに過ぎなくなる。
「わたしその他大勢」に向けた霧雨は、この枯渇した土地にだけ降ってくれた恵みの雨、と捉えられないようなもの。

「つながりを感じてもらえたら嬉しい」という言葉も、そのひとの本心なのだろうと思う。
わたしもそのひととのつながりを感じられたらいいな、と思う。でも、これは「わたしその他大勢」に向けられた言葉なのだ、と感じた途端、片思いみたいな気持ちになる。言葉を「自分ごと」として捉えた瞬間、いやいや、これは自分だけに向けられた言葉ではないのだ、と感じる。

どうして素直に「嬉しいな、ありがとう」と思えないのだろう?

やはり、「つながり」という言葉は、相互の関係が意識されないと意味を感じられないのではないだろうか。
「わたし」→→(つながり)→→「相手」
「相手」→→(つながり)→→「わたしその他大勢」
これではどうしても相互の感覚が薄いような気がする。

目に見えないのに、いや、目に見えないからこそ、「わたしだけに向けられたもの」と希少価値を持たせて大事にしたいのかもしれない。個人差はあるだろうし全然そう思わないひともいるかもしれない。そして、わたしはきっと「わたしだけのもの」と大事にしたい傾向が強いのだろうと思う。
苦しいほどになれば、これは解決していくべきわたしの課題なのかもしれない。みんなはどうなんだろう。それとも、わたしが「他人に向けている言葉なんて、どうせ自分のこととして捉えることはないだろう」と思いすぎなのだろうか。こんなに思う自分の気持ちを信じられていないがゆえに、他人からの気持ちも信じられていないのかな。

この記事が参加している募集

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?