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コミュニケーションをするために書くということ(そしてニーア・レプリカントへの参照)

コミュニケーションをするために何かを書くということについて。確かに自分はコミュニケーションをするために書くという意識があまりない時がありました。ただ、それではいけないのではないかと思って、コミュニケーションをするために何かを書いてみることにします。
とりあえず自分の病名が最新のものになりました。「統合失調症」と「解離性障害」ということになったのでした。
「統合失調症」と「解離性障害」ということで今までで一番重い診断名になりました。「統合失調症」については、自分はどこまでが現実でどこからが妄想なのかという区別がつかなくなることがありました。
実際にテレビから自分に語りかけているように感じたことがありました。実際にそんなことはありえないのに、有名な人が自分にメッセージを送っているかのように感じたのでした。それは、実際にはありえないことなのに、そうしたことが起こっていると感じた。それは「統合失調症」の症状ということに今ではなっています。その時も「統合失調症の初期症状」だからということになりました。また頭の中で声が聴こえるのも薬を飲んで早くそれを抑えようということになっていました。
ただ、その後、独自の調査により、精神病でなくても幻聴は聴こえうるという研究があることを見つけることはできました。
例えば、次の論文の要旨にはPTSDとかでもそうしたことがある、実際には解離性障害の幻聴は解離性幻聴と言って、統合失調症の幻聴とは異なるという話でした。

そうしたことについて一応頭では理解しています。
そうした状態があるなかで、自分は自分のことを統合失調症として理解できる部分もあるけど、医者がつけたもう一つの診断名「解離性障害」の方、こちらの方が私にとって意味深い診断名になっていることは私は理解しています。人間は幾つもの顔を持ちうる生き物だと思います。
それは「分人主義」という仕方で考えることができるものだと思います。平野啓一郎さんの「分人主義」については何度も言及していますが、例えば「分人主義」と結婚の関係についての論文があったりして面白いです。

また、個人のnoteですが次のような文章もありました。

「分人主義」と親密圏の問題は面白いと思います。
それと解離の問題が重なった時にどうなるかという問題は自分にとって課題だと思います。
これは、どの文献や論文で読んだことか判然としないのだけども、実際に解離の人では超自我の役割を果たす人格と、自我の役割を果たす人格がそれぞれ別々のモジュールとして存在しているというようなことが言われています。※心のモジュール的なあり方については次の文献で例えば解説されています。15ページから16ページ。

そのことと自分のあり方を重ねてみると、自分の状態、少なくとも「解離性障害」として認められた自分の状態と重ねて捉えると、自分は「単一人格障害」という状態になりうることについて危険性を理解しながらも、確かに解離性障害の人として自分のなかで複数の意識や人格が蠢くことを理解しながらも、どうしたらその状態を踏まえて今後の生を組み立てねばならないか考えないといけないとは思いました。
単一人格障害については、例えば次のように解説されています。(DIDは解離性同一性障害のことです。)

すなわちDID障害の患者さんが統合され、単一の人格へと納まった場合、そこで待っているのは今度は(多重人格障害ならぬ)単一人格障害だというのである。すなわち今度は心の中のさまざまな齟齬や葛藤を、ホスト人格が全部背負い込まなくてはならず、それは早晩そのホスト人格そのものの障害をきたす可能性が考えられるのである。

岡野憲一郎 『解離性障害:多重人格の理解と治療』 岩崎学術出版社、170頁、太字強調(原典では傍点強調)は原著者による)。

自分が解離について考えていることについても、もしかしたら妄想の症状かもしれないとは思います。なので、これは妄想かもしれないという思いはあります。ただ、そのなかでも自分が感じるリアリティは言語化できるのではという思いはあり、言葉にしていきます。
人の歓心を引くような言葉ではなく、現実に自分が思考したことをしっかりとトレースするような言葉で語った方が自分は信用も得られるのではないかと思います。
これまでnoteを書きましたが、個人的には消したい記事も存在しています。消したいような内容ということ、たとえそれが試行錯誤の中で書かれたものだとしても、自分のことを自分で傷つけるような言葉は発してはいけなかったと思います。その点で、自分はその幾つかの記事に今でもいいねがつくことがあるのですが、気分としては結構複雑です。その内容の記事を消せば良いのですが、それができないので、自分は今苛立っている時はあります。

近代的な自我が解体した先にあるものを自分は見ていたのかもしれないです。(これについては何度も参照しているけれど、次の著書のなかの「〈外部の終焉と共身体的自我へ」という論文を参照のこと。https://www.utp.or.jp/book/b306164.html

それは解離的自己のあり方かもしれないし、実際に自分はそうした解離的複数性を感じているのだけども、その自分の中の内部での〈引き裂き〉を生きるということについては自分でどう感じるかはともかく何らかの比喩によってそれを語るということについて考えてみたくなる。
自分のなかの〈引き裂き〉は解離として捉えれることかもしれない。だけど、その解離という現象をどう生きるかは自分の中で大きな問題だったので結構そのことについてずっと考えているようなところがある。そうしたことについてどう考えるかということは自分の中で課題であるのだが、例えば、ニーア・レプリカントというゲームのストーリーは自分にとって面白いところがある。
ここはネタバレになるので、ネタバレが苦手な人は避けてください。

〔ゲシュタルト体〕白塩化症候群による人類滅亡の危機を救うために、人類は魔法を利用し身体から魂を抜き出す「ゲシュタルト化」の技術を生み出した。それによって魂のみの状態になった人間をゲシュタルト体という。

「ウィキペディア ニーア ゲシュタルト/レプリカント」上記Weblioより

〔レプリカント体〕白塩化症候群による死を免れるため、ゲシュタルト体となった人間が病の脅威が去った際に人間に戻るため、その身体を基に作られた人間もどき。本来は単なるゲシュタルト体の器でしかないがいつしか自我・人格を持つようになった。

「ウィキペディア ニーア ゲシュタルト/レプリカント」上記Weblioより


以上をまとめると、人間の元々の魂が「ゲシュタルト体」であり、そこから独立して存在する人間の身体に宿った自我・人格が「レプリカント体」である、ということになります。自分の状況と重ね合わせて捉えると、自分も「ゲシュタルト体」としての魂と、「レプリカント体」としての魂が複数的に存在しているのを感じる時があります。
自分の自我が解体されているなかで、自分の身体に宿った魂が「レプリカント体」ということになるのでしょうか。
ただ、「ゲシュタルト体」としての自分と相容れない部分もあります。
そのなかで、自分の破断した魂をもう一度、本当のあり方に戻したいと思う気持ちもあります。そのなかで、自分の人格の統合と呼ばれる作業をすると、自分でどうしたら人間になれるのだろうかと思ってしまいます。
「レプリカント体」ということについて、「人間もどき」という言葉があります。レプリカントは「人間もどき」であって、「人間」ではないということは確かに言説として過激ではありますが、自分の身体と同時に年老いてきた魂ではない魂が身体に宿っているという点においては何らかの問題があるのかもしれないです。
これまでのnoteのなかで言葉に齟齬があるところはありますが、できるだけ説明しようとしています。
「レプリカント体」人格:トランスジェンダー女性の人格
「ゲシュタルト体」人格:男性の人格
ということになります。
前回のnoteもこの「ゲシュタルト体」人格で書いています。

自分は自分に何度も問い直しているところがあるため、自分の考えが変わることはあります。なので、過去の投稿に対してどうしても距離ができる時はあります。ただ、この前回の記事で言うところの
a) 「身体の性」としての男性として書くこと(Writing as man)
b) 「心の性」としての、つまり心・意識のなかでかなり容量が割かれているところの女性として書くこと(Writing as woman)
この2つは、a)が今回のnoteで言うところの「ゲシュタルト体」人格と、b)が「レプリカント体」人格に対応することになるのだろうなと思います。
この両者が相克を起こしてしまうところに自分の不幸はあったのかもしれないと思います。
壊れた近代的自我を復権させるなら、「ゲシュタルト体」人格で生きる、それを「ホスト人格」として自分の内面を回復させていくということが求められることになると思います。
問題はすると、「レプリカント体」人格で自分を知り合った人はどうするのかということです。それは自分のなかで難しいところはあると思います。
ただ葛藤を持つ自分でいること、神経症でいることは自分にとっては大事なことだと思います。それは、精神病にならずに、自分の周囲の人としっかりと人として交わることができるようになるということです。
それは難しいことかもしれませんが、なんとかしていきたいと思います。
解離性障害と(あらためて)診断されたこと、また、ここのところ頭にあった「レプリカント体」と「ゲシュタルト体」について自分の状態と重ねて話すことができました。
近代的な価値観を自分は好きだと思っているところがあるので、自分は神経症に自分を再びするという方向で、考えていきたいと思います。
人になることは試練かもしれないし、実際に人になるってどういうことなのかと思いますが、内面を自分のなかに深く穿ち、自分の心のなかで葛藤しながら生きていくのが良いかもしれません。
自分の身体から離れていた「ゲシュタルト体」人格、その自我や思考を自分のなかにもう一度インストールしていきたいと思いました。
正気を保って、人としてのモラルを持って、近代の価値観を受け継ぎつつ、現代の価値観のなかに閉じ込められることなく(それを自分は「今日性への閉じ込め」だと思っています)しっかりと考えなければならないことを考えて、自分の人生にしっかりと意味を与えていきたいと思います。

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