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分身ではない役割演技について

分身を担うことはある。私自身は解離的な存在を心のなかに抱えている。その思考あるいは言葉(インナーボイス)にずっと悩まされている。その思考や言葉の内容を現実の自分が引き受けてしまうことで、自分はずっと自己内の分身的幻聴に悩まされてきた。その分身的幻聴は確かに非常に特異な思考を展開している可能性は高い。その思考自体を否定したいのではないが、あるフランスの思想の関係の本を読んだ時に、人は<他者>のイメージを心のなかに持つことによってその<他者>に向かっていくよう動機づけられることによって人になっていくという議論が存在していました。
それは例えばロールモデルについて私たちがどう思うかということも関係しているかと思います。
どういう存在を自分のロールモデルにするのか。それはまた大きな問題ではないかと思います。
私は人に嫌われやすいし、何らかの役割演技をしていないと人に好かれないという感じのところはあります。
相互に眼差される空間のなかで、例えば自分はキャラとしてある役割を引き受ける、それはキャラとしての自己同一性のようなもので、自分のキャラを脱いだところにある自己同一性とはまた違うものだと思います。
確かに自分はキャラとしては男性のキャラを引き受けることが多いのだと思います。
ただ、男性のキャラを引き受けるということと、実際に自分のアイデンティティのレベルで自分の性別がどうなっているかということはまた違うものだと思います。
私は髪を伸ばしていたことがありましたが、そこで投稿した写真が別のSNSでいいねを結構獲得したので、ここにも載せようかと思ったのですが、もしかしたら自分がいわゆる完全に性的に見えてしまう可能性もあり、それは少し今はここでは遠慮しておこうかなと思いました。
私のなかで今分身的幻聴があり、それは確かに私自身にとって非常に日常生活を困難にしています。離人的な症状や医者が自我障害と呼ぶものも起こっています。
そして自分としては出された抗精神病薬を飲むしかない。それは統合失調症には効くけど、解離には自分の悩んでいる分身的幻聴にはほぼ効果はない。
分身的幻聴はずっと聴こえる。それは永遠に自分が死ぬまで聴こえます。
それが辛いと思って、自分も飛び降りたいなと思う気持ちはあります。
でも、自分は何か分身的幻聴がそう言うからではないのですが、自分なりに自分の責任を取ってきていると思うので、なので死ぬまでには及ぼないかなと思っています。

私は精神疾患を抱えていますが、他にも精神疾患を抱えておられる方はいるかと思います。どんな立場の人であってもです。
私はある本で読んだのですが、「触法的精神障害者」という問題があり、やはり身体障害者と知的障害者に比べて精神障害者は法を犯してしまう可能性が高いということですね。私たちは気をつけないといけないです。
私たちは人に憎まれて死んだら「あの人が死んで良かったな」と思われて死んでいくのでしょうか。

それはあまりに自分の生に対してそれを遺棄的に扱っていることにならないでしょうか。
自分の生を遺棄するのではなくて、せめて意味のあることを自分の人生のなかでしていきたいと思っています。

私はある意味で大人としても振る舞えるようになってきました。
感情を表したりしない。それは20代の頃は感情のままにというか、いわば分身的幻聴に動かされる形でずっとそちら側のサイドで主体があり、主体が二重になり、その背後の主体が自分をずっと操作しているような状況で何かをしてきました。
それについては、前も紹介したかもしれませんが、「黒幕人格」の存在があります。

この「黒幕人格」的な存在が「分身的幻聴」として聴こえている可能性が高く、ずっと自分はそれを「心の声」と混同してきたので、それにしたがって行動してきました。例えば、今日「御殿場に行きたいな」「河口湖に行きたいな」という声が聴こえます。
でも、それは私の自我の声ではなさそうです。なぜなら、私は別に「御殿場や河口湖に積極的に行きたいわけではないからです」。
私はむしろ自分の内面について整理するためにこの今日の夏季休暇を取りました。

私はそうした夏季休暇を取得して、少し自分の今のさらに内面について理解したことをブログにしてみました。

私は最悪の人生だったのかもしれないと思うことがあります。
でも、まだ34歳なので、何か根本的に自分を反省したら、そして受け入れるべきことをすべて受け入れたら何も疚しいところなく生きているかもしれないです。

私は人生をもしかしたら分身の分まで生きてきたのかもしれないです。
でも、もしかしたらあのニーア・レプリカントというゲームにあるように、私にとっては分身はあのゲームにおけるゲシュタルト体で、自分自身の今この世界を生きている自我はレプリカント体になっているのかもしれない。
ゲームではゲシュタルト体は魔王になって、自分にとって最終的に倒すべき相手でした。
その最終的に倒す相手が自分であるかもしれない、あるいはかつて自分であったその独立した精神体かもしれないということは私にも当てはまることかもしれません。
私はつまらない人間になったのかもしれません。でも、私にとっては今自分に起こっていること、それはもしかしたら自分が社会化されるということなのかもしれないですが、その社会化を経て、いわば今まで自分の聴こえてきて参照源としてきた自我から距離ができるということがあるのかもしれないです。
それは自分にとって新しい自我を構成していくということのかもしれないです。
それは社会を生きるに当たっては必要なことかもしれません。
人を不用意に傷つけてしまうのは良くないことです。
私は自分の言葉で人を傷つけてしまったことがあるかなと思います。
そんなことはもうできるだけしたくないです。
どうすれば人とコミュニケーションが取れるのか考えて、自分の内面の悪いところは全部治していきたいです。
自分のこの二重意識的な症状によって生まれた文章、それはもう自分にとってはそれをどう乗り越えるかしか意味がないものかもしれません。

そうしたことを受けて、おそらく自分にとって、意味のあることを見つけたいです。私はもしかしたらすごく他者性のある人かもしれません。
ただ本当の意味ではどんな人であっても包摂される社会の方が良いと思っています。

それは社会正義の観点からそうだと思います。
私は正直なところ自殺について何度も浮かびました。

でも、自分は潜在的には嫌われているから、死んでも喜ぶ人がいるだろうなと思う、死んでも誰も悲しまないと思うだろうなと思って、
それが悔しくて、正直、更生してから死にたいと思います。

死んだほうが祝福される生もあるのでしょうか。
私はそのことは思いました。

自分はあまり人に言い返したりしないほうです。基本的には。
自分が悪いのではないかと思ってしまいます。
私は分身的な思考を抱えているということを何度も書いてきたけど、社会的にはやはり公共的に生きられる自我で生きていくべきで、それはどうその人があっても、いわゆる「禁止」を守って、例えばそれは作田啓一が言うところの「殺すな」という「禁止」。そうした「禁止」を守って生きられるかは大事だと思うんですね。
影響を受けたのは、作田啓一の『現実界の探偵』です。

私はその本をフランス留学中に読み、感銘を受けました。
私は何らかの仕方で象徴的な世界から排除されているかもしれないけど、それは分身が排除されていると言って良いような気もします。
私はその分身を悼んでいくしかないのかもしれないし、本当はその声も聴こえているつまり自分のなかで「もう一人の自分」の声が聴こえている。
それでも、何が「自分」で「もう一人の自分」なのかはそれは社会生活を送るうえでやはり社会的な方を「自分」にしたほうが生きやすいんですよね。
「もう一人の自分」はこれもキャラだったのかもしれないし、自分の暗い自我だったのかもしれないです。
社会生活を送るうえでは暗い自我についてはあまり言葉にしない方が良さそうですね。
私はこうした状態ですが、自分については本当に反省はしています。
反省したうえで、自分の病によって起こった部分はあるにせよ、自分のなかでこの症状と向き合って、分身にいわば自分のかつての精神(ゲシュタルト体)に操作されないように生きていかねばなと思います。
私は正直に言って疲れてはいます。夜中の0時とかまで家に帰っても動けない時はあります。
そんな自分ですが、noteは誰も読んでくれないかもしれないけど、一応書いていくつもりです。
分身と私。私は分身ではない。
私はどうやって生きいけば良いのだろう。
もしかしたら自分自身は罪深いかもしれない。
そのなかで、どうしていくかは考えます。


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