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ひとりごつ

 下北沢の駅で電車を降りる。友人が約束に遅れてくるらしい。
 しかし私はどこか楽しい気分で、そのまま新宿行きの小田急線に乗り換えず改札を出る。ここから「私の時間」が始まるのだという予感にも似た感覚は、誕生日に欲しかったものをプレゼントしてもらった幼子のようなワクワクを、私に与えてくれるようだ。
 私は人付き合いが苦手だ。特に愛想笑いが苦手だ。集団でいる時に知らないトピックで盛り上がっているのが苦手だ。人といることが苦痛なのではなく、発生する会話に自信が侵食されていく感覚が、苦手なのだ。他人と話を合わせるために抱く薄い興味にも、どうにも吐き気がする。
 私は私であるが、そんな私を愛してくれるのは親兄弟と私自身しかいない。
 世界に好かれるためには社交性を持って生まれてこいと、言われているような気がするのだ。そんな世界に合わせている時間は、私にはない。生まれ持った興味関心を満たすので短い人生は精一杯で、だから私には数えきれないような友人はいない。友人もまた、皆自由である。そんな友人達が、両の手で数えられる程。
 改札を出て少し歩いて、コンテナ状の建物に入ってみる。何度も来たことのある土地だというのに、私はこの町の表層しか知らない。
 一人で知らない店に入るのが好きだ。自分が見つけたものこそに、私は特別感を抱けるのだ。コンテナ二階にある、なんの変哲もない本屋すら初見の喜びがある。世界としてそこに存在するだけでは、それは「私の世界」の構造物足り得ない。自分で観て、触れることによって自分の領域が広がっていく感覚が実に面白い。他人から聞いた店じゃ、なかなかこうはいかない。その他者の影がちらつくところでは、私のような一人大好き人間はくつろげないのだ。
 本屋を降りて、直進していくと下北沢郊外。何もないと、人は言う。
 遊ぶのには不便な場所だ、郊外というのは。だがそうした周縁こそ、私的な発見に満ちているのである。街の中心部というのは街自体ではなく、人が主人公なのだ。そこに街としての自我はなく、人間の営みを彩る背景として街がある。他方周縁部では邪魔な有象無象が消え、真の意味での街が出現する。単なる背景ではなく、私の世界の、私以外の主人公となる街。そんな街を徘徊するのが好きだ。くだらないものを見つけて密かに笑っているような人生こそ、私の求める幸福だから。そこに爆笑はいらない。ただ、そこに洒落た店名があっただとか、目を引くような商品が置いてあっただとか、需要もわからない店があっただとか。そういった少しの謎と可笑しさが「私の世界」を彩るのだ。
 ぐるっと一周、病院が見える角まで来てみると寂れたスナックや工務店。カーブミラーのオレンジ色が眩しい世界になってきたあたりでまた、テンションが上がる。華やかな街の寂れた一面というのは、自分の生きる世界の不完全さを感じられて心地いい。その不完全な風景は完璧さを求められる対人関係に疲れた私の心に染み渡る。そんなに他人にばかり気を遣ってられるか馬鹿、という私の思いを肯定してくれる気がしたのだ。
 そのまま直進して飲み屋街の喧騒に触れ、ある意味私と同じく「社会不適合」な人の群れに安堵した時、携帯が鳴る。
 友人が新宿に着いたらしい。
 ようやく予定が始まることへの楽しみな気持ちに、私の旅が終わる一抹の寂しさが混ざる。
 しかし歩幅は大きく、駅に向かう。いつ工事が終わるのかわからないフェンスの間を抜けて、再び駅へ。出てきた改札とは違う改札に入り、友人とのこれからの予定に思いを馳せた瞬間、私の旅は終わった。

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