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【小説】鏡の母〜棗藤次〜

「…えっ?」

「せやから、形見分け。アンタにはこれあげるわ。お母はん…最後の最後まで、それ大事に、握りしめてたえ?」

…そうして姉ちゃんから渡されたんは、古ぼけた巾着に入った、漆塗りの加工が施された表面に、瀟酒な小花が描かれた、小さな手鏡やった。

なんてこたぁない。

検事になって初めて貰ろた給料で…たまたま通った福岡の和雑貨屋で買うて贈ったった、安もんや。

それをこんなん…ボロボロになるまで使って、大切にしとったやなんて…アホか。

贈ったんかて、初めて自分で稼いだ給料やて舞いあがっとって、散々散財した後に、まあ…たまにはええカッコしたろか言う、しょうもない動機やで?

それを…こんなに大事に…

「とーちゃん…」

遺骨になった母親の前で、ワシはただひたすら泣いて、泣いて、泣き腫らして、その小さな形見を持って、地方都市を転々とする日々を送った。

そうして20数年…母親によう似た女…絢音に一目惚れして、結婚した。

式終えたその日の夜に、ずっと肌身離さず持ってたそれを、母親の形見やけど、ワシやと思うて持ってて欲しいと言うて渡すと、彼女は困ったような表情をしたので、どうしたんやと問うたら、こう言った。

「気持ちは嬉しいけど、受け取れない。お義母様との、大切な思い出なんでしょ?」

…思い出…

そんな、大層なもんやない。

そんな、綺麗なもんやない。

ただホンマに、気紛れの、軽い気持ちやったんや。

そう吐き出して泣いていると、優しく抱き締められて、優しく頭を撫でられて、慰めるように、あなたのそう言う優しい所が、私好きよと言われて、益々涙が溢れてきて、大事な結婚初夜なのに、子供みたいに彼女に抱きすがって、夜を明かした。

翌朝、腫れぼったい目を開けてベッドをみると、絢音は既に起きとって、階下から美味そうな匂いが漂ってきたから、腹を鳴らして降りてみたら、いつか見た母親と同じ背中が台所にあって、思わずお袋と叫びとうなった。

その背中がゆっくりこちらを向き、やっぱり似た笑顔で、おはよう。眠れた?と聞かれたので、まあまあやと答えると、絢音は黙って、昨日ワシが渡した手鏡を、手ぇに握らせる。

「一晩考えたけど、やっぱりあなたが持ってて。どんな形でも、お義母様にはあなたとのかけがえのない思い出だったんだから。これからもその気持ち、大切にしてあげて?」

ね?と念を押されて渡された手鏡を見つめているうちに、また涙が溢れてきて、すまんと小さく呟いて、彼女に背中をさすられながら、初めての2人の…いや、3人の食卓を囲んだ。

なあ、お母はん。

ワシにもようやっと、家族…できたえ?

もう45やから、子供は授かれるか分からへんけど、ワシ…精一杯この人を、幸せにするな。

そう願いを込めた手鏡を、鞄の内ポケットに入れて、絢音の眩しいほどの笑顔に見送らせて、通い慣れた京都地検へと続く道を、キュッと、踏み締めた…

春の陽気の下、秋霜烈日の検事バッチがキラリと輝き、この先の未来を明るく照らしてくれてるんやろなと思うと、泣き腫らした顔に、ほんのりやけど、笑顔が戻った気ぃがした。

せや…


ワシはもう、

独りやないんや…

愛する人と過ごす人生、手に入れたんや。

せやから、これからもこの小さい鏡ん中で、見守っててや。


お母はん…


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