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ケプラーの「ねこ」を飼う

「どうか、この子を一週間ほど、預かってくれませんか。初対面なのに、こんなことを言いだして申し訳ない。でも、どうしても、この子を連れてはいけない場所に行かなくちゃならないのです。少し特殊な猫でして、どこのペットホテルにも断られてしまうのです。地球に知り合いもいないものですから、どうしようかと途方に暮れていまして。必ずお礼します。必ず、迎えに行きますから」

カラフルな服装の細身の男性は、私に深すぎるお辞儀をしながら、一気にまくしたてた。男性が大事そうに抱えている長方形のキャリーバッグから、ニャーという鳴き声が、かすかに聞こえた。

私が困惑していると、男性は土下座の体勢になろうとした。慌てて止める。ここは休日の昼間の駅のホームだ。周囲からの視線が痛い。駅員さんに乗客同士のトラブルだと勘違いされるのは避けたい。

「あ、あの、落ち着いて、ください。とりあえず、座りましょう」

ホームのベンチに移動させて、座らせる。涙目な男性の膝に置かれたキャリーバッグから、また不安そうな鳴き声が聞こえた。

「私は、ケプラーと呼ばれる星から来たばかりでして。初めての地球観光で、浮かれていたのでしょう。来る途中に宇宙の隙間、『ボイド』と呼ばれる場所に大事な鍵を落としてしまって。ああ本当に自分が嫌になる。宇宙の落とし物保管所に行くには、特別な通路を通る必要があります。この子は通れないのです。すぐに取りに行かないと、廃棄されてしまうし…」

男性はキャリーバッグを抱き締めた。嘘か誠か判別しにくい話に、混乱状態が続く。しかし、泣きそうな男性が本当に困っているということだけは確信できた。男性の不安な気持ちが、私の胸もつらぬく。私もかつて、猫を飼っていたから。



用事のない休日。なんとなく家に一人でいたくなくて、なんとなく乗った電車。

隣に座った男性が膝に乗せている長方形のキャリーバッグに、目が釘付けになった。チラチラ見える、三毛猫らしき動物。数年前に亡くなった愛猫と似た三毛柄だったものだから、無意識に「可愛いですね」という声が出てしまったのだ。

普段は無口で口下手なのに、この男性とは猫の話で盛り上がった。数十分後に同じ駅で一緒に降りようとした時、こんな頼まれごとをされるとは思わなかった。



ついに、ぐすぐすと泣き始めてしまった男性を見て、心を決めた。数十分の会話で、この人は私を信用してくれたのだ。私も、この人を信じてみよう。

騙されたって、いいではないか。猫を一匹、助けられるのだから。

「分かりました。私が責任持って、お預かりします。大丈夫ですよ。だから、泣かないで」

そう言った途端、男性は私の両手を掴んで、ありがとう!と絶叫した。ああ、また注目を浴びてしまう。



男性から受け取った専用の餌やトイレシート、おもちゃの入った袋と、キャリーバッグを担いで帰宅した。慎重にキャリーバッグを床に置いて、猫が快適に過ごせる空間を手早く作る。

トイレを設置している時に、猫の名前を聞きそびれたことに気付く。まぁ、いいだろう。あまり情が移っては別れが辛くなる。シンプルに「猫」と呼んでおこう。

餌を小皿に出そうとして、驚いた。蛍光ピンクのゼリーだ。猫が食べそうにない色合いとハーブティーのような香り。パッケージにはアラビア文字のような文字が印刷されているが、当然、読めない。

本当に、食べさせていいのだろうか?迷いながら少量の餌を盛った小皿を持ち、キャリーバッグに近づく。

緊張しながら、キャリーバッグのチャックに手をかけた。ニャーという、高くて細い声。ああ、きっと可愛い三毛猫だ。早く顔が見たい。

チャックをジジジジとゆっくり開けた時、三毛柄の毛皮の塊が、勢いよく飛び出てきた。蛍光ピンクの餌が飛び散る。その姿を見て、私はあんぐりと口を開けた。

それは正しく、「ねこ」だった。

平仮名の「ね」と「こ」が、連結したような毛皮の未確認生物。「ね」の部分がぴょこぴょこと跳ねるように前進し、「こ」の部分がその後に続く。

硬直する私の周りを飛び跳ねた後、「ねこ」はキッチンへ向かった。三十秒ほど放心してから、急いで追いかける。

「ねこ」はキッチンマットの上で落ち着いていた。「こ」の上に「ね」が重なっている。猫が自分の後ろ脚に頭を乗せているような体勢、なのだろうか。

これは、猫だ、猫なんだと自分に言い聞かせながら、恐る恐る、震える手を伸ばす。

「ね」の丸い上部を撫でると、ニャーという可愛い返事が返ってきた。確かな体温のある、生き物の感触。短毛種の猫のような、滑らかな撫で心地。今は亡き愛猫を思い出した。




「ねこー、ご飯だよー」

ソファでぐっすり寝ていた「ねこ」は、跳び起きて私の前にやってきた。

「はい、お座り、お手」

器用に「こ」の上に乗った「ね」は、「ね」のくるりと曲がった部分を伸ばして、私の差し出した手に触れた。温かい。

「完璧。どうぞ、お召し上がりください」

蛍光ピンクのゼリーを盛ったエサ皿を置くと、「ねこ」は勢いよく食べ始めた。口元を覗いてみるが、どこから食べているのか、四日経った今でも分からない。

異星の「ねこ」は、賢くて摩訶不思議で、可愛い。あの飼い主の男性が迎えに来たら、困った時はまたぜひ私に預けてくれと頼もう。



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