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コートの煙

 苦手だった煙草を始めた。話しかけても同じ顔でしか返事しかしないあなたが、喫煙所で表情が緩んでいるのを見た。首から下げているVivienne Westwoodのライターに口元のそれを近付け、白く長い雲をたなびかせる。あなたの煙だと知れば"臭い"は"匂い"に変化し、吸うのに使う二本指と咥える薄い唇がとてつもなく妖艶だったから、思わず目を逸らした。何度も踏み潰され赤黒くなった名も知らぬ木の実を見つめながら、あなたの残像に釘付けだった。あなたの存在は、煙草を始める動機として十分すぎた。煙を吸いあなたが微笑する相手が、自分であればいいと思った。

 「火を頂戴してもいいですか?」火が欲しかった訳ではない。話をする理由なんて何でもよかった。ただ少しでも、あなたの眼に映りたかっただけだ。「君、タバコを吸うのです?」不思議そうに横目でちらと見、首から下げたライターに火をつけ「こちらに寄せて」と言った。あなたの胸に顔を寄せると、無数の煙が染み込んだ喫煙所の臭いを忘れ、世界はあなたの匂いで一杯になった。一口目、息を吸い込めずにぼうっとあなたの細く白い指をただ見つめた。あなたの胸から顔を離し、慣れない煙草を吸う。苦さに唾が出る感覚を悟られないよう我慢するのも虚しく、こちらには目もくれないつれなさに、心を強く掴まれた。あなたが微笑を向けていた相手は誰?その微笑を向けられる権利は、どうすれば得られる?「こちらを見て下さい」口にしたら一生後悔しそうな言葉は喉元まで出ていたが、思いとどまった。軽い箱を持つあなたの左手薬指は、チカと光っていた。人はそれを何色と呼ぶのだろうか。言葉拙い私は、それを"光"としか形容できない。皺も雀斑もないまっさらな若葉のようなあなたは、何者かの心を盗み盗まれ、それを引き換えに愛し合っている。交わした契りが生々しく想起される。私は愚かだ。情けなさで微笑したが、あなたはこちらを見ていなかった。もうあなたから火は頂戴しない。一度しか吸っていない火を消し、私は臭い部屋を後にした。

 喫煙の衝動だけは消えずに残り続けている。私は首からVivienne Westwoodのライターを下げ、視界に靄がかかると吸い慣れてしまった煙草を吸いに行く。すれ違う人間から、あなたの匂いがした。あの時の煙の香り、あなたの匂い。振り返ったが、黒いコートの裾しか見えなかった。包まれたい、きっとこれは寒さが理由ではない。あなたの匂いや温もりに、私が侵されてしまいたいと思った。雑念を消すように、私は煙草を吸う。白い雲をたなびかせながら、臭い部屋で佇む。あなたがいなければ、この部屋とは生涯縁がなかっただろう。ゆっくりと目を瞑る。瞼の裏側で、あなたの少し驚く顔を思い出し、綻んでしまう。払いきれなかった雑念を潰すように、付けたばかりの火を消した。あなたへの火は消えぬまま、まだ煙が長くたなびいている。誰からも応援されない恋慕だとしても、何の権利を保持できなくとも、許されずとも、私はあなたを愛していたい。

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