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心の自己言及的構造の困難と面白さ

書評:・中野信子『キレる! 脳科学から見た「メカニズム」「対処法」「活用術」』(小学館新書)

中野さんは正直な人です。本書は「キレる方法伝授書」のはずなのですが、著者自身が『実は私もキレて抵抗することが苦手です。』(P14)と「はじめに」で書いており、本書で為されるのは『今後も私とともにその(※ キレる)技術を学び続ける切っ掛けになれば』(P16)ということ、つまり、結論ではなく「学びと実践の方向性の提示」だと、あらかじめ断ってしまっているのです。

普通の著者なら、こうした「内情」は明かさないで、キレる技術の達人を演じ「本書を読めばすべて解決」といったような、誤解を与える書き方をするかもしれません。
しかし、中野さんは「理屈と正しい方向性は示しますが、それが即実行実現できるかどうかは、その人の努力次第」だということを、正直に認めているのです。
ですから、読者の中には「理屈は分かっているけど、それがやれない自分の弱さに困って、それを克服するための何か上手い方法を教えてくれるのかと思ったのに、期待はずれだった」という人も少なくないでしょう。
ですが、結局「1冊の本で、人の性格を変える」ことや「他人の助言だけで、性格が変わる」ことはないのだ、という厳然たる事実を、中野さんが正直に認めているということなのでしょう。

つまり、誰よりも中野さん自身が「時にキレることのできる自分にならないと損だ。適切にキレることのできる人間になりたい」と思い、自身の専門である「脳科学的知見」を駆使してあれこれ考えても、やはり考えるだけでは人間は変われない、心(性格=思考の傾向)を変えることはできない、ということを痛感したうえで、その難問との格闘をはじめる切っ掛けを、本書で提示したのだと思います。

じっさい「適切にキレる方が得」だというくらいのことは、多くの人が経験的に知っており、だから「私もあんな、得な性格になりたいよ」と羨ましがりさえするのですが、それが良いことであれ悪いことであれ、他人の羨むような「性格」というのは、容易に真似することはできません。そもそも、簡単に真似できるのなら、羨んだりはしないのです。

また、迷惑な「他人のキレる」についても、「軽く上手に反論すべきだ」というのは、理屈では分かっていても容易ではないし、ましてそれが「職場の上司」などだと、後々のことを考えれば博打的な「怒りの表現」は難しい。中野さん自身「どうしようもない相手なら、距離を取りなさい。職場の上司のように、イヤでも距離が取れない相手の場合、心を病むくらいなら、その職場を辞めてしまいなさい」という助言をしています。つまり、他人を変えることなど、自分を変えること以上に困難だという事実を認めて、「命を守ることを優先しなさい」という正論を語っており、それはまあ、まったくそのとおりなのですが、仕事を辞めるというのは、やはりそう簡単でにはできないというのも、否定できない現実なのです。

このように、「キレられない自分」「キレてしまう自分」「キレる他人」にどう対処すべきかという「基本的な考え方」を示したのが本書であって、それで万事解決するということではないのを、読者はしっかり理解すべきでしょう。
一人で悩まず、正しい助言をうけるというのは、とても大切なことですが、それで万事解決すると思うのは幻想で、やはり本人が「努力し決断する」ことなしには何も変わらないのだということを、本書もまた教えているのだと思います。

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さて、ここからは余談になりますが、本書は「これでお悩みはイッパツ解決!」というような本ではなく、その点でやや期待はずれ感があったのも事実なのですが、ただ本書には、著者の中野さんの「人柄や執筆時の心境」が表れているようで、私はその部分をけっこう面白いと思いました。

本書から、私がうけた印象は、中野さんはけっこう「自分に自信がない」人なのではないか、ということです。
知ってのとおり、中野さんは、脳科学の専門家(学者)であるだけではなく、『人口上位2%の知能指数 (IQ) を有する者の交流を主たる目的とした非営利団体』である「メンサ(Mensa)」のメンバーです(Wikipedia)。さらに、見てのとおりの「美人」ですから、人の羨むような属性をたくさん持っていて、本当なら「鼻持ちならない自信家」であっても良さそうなものですが、本書でもたびたびつぶやかれるのは「ああいう人になりたい」「私にはできない」という切実な感情で、これは基本的に、中野さんがご自分に満足しておられず、言い変えれば、意外にも、ご自分に十分な自信を持ってはおられない、ということなのでしょう。

これほど、才能や美貌に恵まれながら、さらには、自身の「感情の揺れ」の根拠を科学的に知っていて、ある程度のコントロール法まで熟知している人でありながら、それでも自分に十分な自信を持って、安心して生きていくことができない。この「完全には自己コントロールできない」というのは、人間というものの宿命めいたものを、とても象徴しているように思えてなりません。

「脳科学的には、そうした時はこうしたらいい」と一応の説明はつくけれども、それで万事解決とはならないところが「人の心の難しさ」なんでしょう。
でも、だからこそ「人の心は面白い」と感じてしまうのは、私が文学趣味の人間だからなのかもしれません。

「心もまた科学的現象である」と思いながらも、その心の支配下にあるが故に、心そのものを自分でコントロールすることが必ずしも容易ではない、「自分vs自分」という、切っても切れない「メタ(自己言及)関係」というのは、困ったことではあるものの、でも、やっぱり「だから面白い」と思ってしまうのは、私だけなのでしょうか。

初出:2019年6月9日「Amazonレビュー」