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希望としての〈山本太郎〉(増補版)

書評:ele-king編集部『ele-king臨時増刊号 山本太郎から見える日本』(Pヴァイン)

山本太郎とは、何者なのか。

元俳優で、反原発運動から政治の世界に入り、独特に個性的な政治活動で注目され、2019年の参議院選挙では、ユニークな候補者を揃えて自ら立ち上げた政党「れいわ新選組」が予想外の旋風を巻き起こし、世間の注目を集めた。
一一と、こう説明しても間違いではないだろうけれども、こうした外見的な説明では、どうにも山本太郎という政治家を説明しきれているようには思えない。

彼の語る政策は理解できるし、彼の行動は面白いと思うのだけれど、しかし、彼が心の奥底で何を考えているのかが、どうにも掴みきれない。そう感じられてならない。その個々の主張や、口にしたことではなく、その根本にある、彼の思想や本音が見えたような気がしない。

彼が世間を欺いているというのではない。彼は、その見かけの奥に「独特の世界観」を持っているように感じられるのだが、ただ、それがどういうものなのか、自信を持って語れるほど、彼を理解できている、という自信が持てない。これは、私だけではなく、彼に注目する多くの人にとっても、同じではないのだろうか。

本書(本誌)は、山本太郎本人へのインタビューよりも、むしろ山本をおおむね肯定的に評価している識者へのインタビューをメインに構成されている。
だが、そんな彼らでも、山本の表面的な言動や政策をそのまま評価している人はむしろ少なく、多くは、山本の「独特の存在感」に由来する、その「可能性=潜在力」の方に注目しているように見える。つまり、彼を見たままの表面で評価したり、彼の語る政策的なものを、彼から切り離して「政策」として考えることは、山本太郎という政治家の「存在価値=可能性」を見ていないことになるのではないかと、そう思わせる評価がなされている。

言い変えれば、多くの人にとって、山本太郎という政治家は「可能態」なのだ。
今はまだ「ちょっと変わった政治家」「よくわからない政治家」でしかないのだけれど、しかし彼は、それに終らない「可能性」を強く感じさせ、「このままでは終らない政治家」「良くも悪くもそのうち大化けする、という可能性を感じさせる政治家」と認識されているようなのだ。
だから、今の彼が語る政策にさほど高い評価を与えていなくても、彼はそこを「とば口」として新しい日本を切り開いてくれるのではないか、そんな「期待」を持ってしまう独特の魅力が「山本太郎という政治家」にはある。「独特の存在感」が、彼にはあるのだ。

本書を読了しても、やはり「山本太郎という政治家」のそうした「存在感」の内実を、ハッキリと示してくれる論者はいない。表面的な部分だけで山本を論じている論者は論外として、「可能態としての山本太郎」をハッキリと感じながら、その可能性に期待している論者でも、これから先、山本太郎がどのように変貌していくのか、それをハッキリと見通している者はいない。
だから、そのあたりの解明を期待した私のような読者は、結局のところ、本書を読み通しても、やはり「山本太郎という謎」については、宙づりにされたままなのだ。

しかし、「山本太郎の根源的な魅力」とは、結局のところ、この「見通しきれない奥行き」なのではないだろうか。

山本の言動を嫌って「山本は口だけ」とか「山本は極左」だなどと決めつけたり、逆に「山本は弱者救済のヒーロー」だなどという紋切り型のレッテルを貼ることは、容易かつ安直である。結局のところ、そうした人々は単に自分の「願望」を山本に投影して語っているだけで、「山本太郎とは何者なのか」ということを本気で考えようとはしていないし、そんなことには興味のない人たちなのではないか。

だが、本書を読み通して私が感じたのは、誰も山本太郎という政治家を、完全には見通せてはいないということであり、逆に言えば、そう簡単に見通せないところこそが、「山本太郎という政治家」の「可能態としての魅力」なのではないか、ということだった。

今の日本の政治家は、与党政治家であれ野党政治家であれ、たいへん「わかりやすい」。
もちろん、政治家には「わかりやすさ」が必要なのだが、今の日本の度しがたい閉塞状態を、そのような「わかりやすい政治家」たちが打開してくれそうな気が、まったくしない。一一多くの人が、そう感じているのではないだろうか。

だから、山本太郎の「わかりにくさ」に、「一抹の不安(危険)」と「失望の可能性」を感じながらも、彼にしかない「見通すことのできない奥行きの可能性」に期待したい、と考える人が多いのではないか。だからこそ、彼をその「表面的な部分」だけで評価するのは、まったく不十分だと考える人たちが少なくないのではないだろうか。

山本太郎という政治家は、よくわからない。いずれ何かをやってくれるのか、それとも意外に期待はずれの「イロモノ政治家の一人」で終ってしまうのか、それがよくわからない。
しかし、私たちは、「変革への期待を委ねる気にもならない、既存のわかりやすい政治家」ではなく、一種の「バクチ」でもいいから「山本太郎の可能性」に賭けたいと、そう願っているのではないか。

山本太郎は、何かをやってくれるかもしれない。しかし、彼にそれを期待するだけではダメだろう。
「地球に危機が迫ったとき、どこからともなくやってきた宇宙人ウルトラマンが、私たちの星を救ってくれる」というような期待は、結局のところ、彼を孤立させ、彼の持っている可能性を潰してしまうことにしかならない。

彼の「正体」はわからない。だが、彼の可能性を開き、彼を作っていくのは、私たちなのではないだろうか。

初出:2020年6月17日「Amazonレビュー」

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【補記】(2020.07.02)

私は、上のレビュー(2020年6月17日公開)で、

『山本太郎という政治家は、よくわからない。いずれ何かをやってくれるのか、それとも意外に期待はずれの「イロモノ政治家の一人」で終ってしまうのか、それがよくわからない。
しかし、私たちは、「変革への期待を委ねる気にもならない、既存のわかりやすい政治家」ではなく、一種の「バクチ」でもいいから「山本太郎の可能性」に賭けたいと、そう願っているのではないか。』

と書いたが、最近、自分なりに腑に落ちる「山本太郎」理解が得られたと感じたので、それを以下に紹介させてもらおう。

そのヒントを与えてくれたのは、『ニューズウィーク日本版』(2020年6月30日付け)に公開された、作家で映像監督の森達也による『山本太郎の胸のうち「少なくとも自分は、小池さんに一番迫れる候補」』というタイトル(見出し)の文章だ。

森は、この文章の冒頭で、

『以前から(※ 都知事選に)出馬するのでは、との噂はあった。でも先に宇都宮健児が出馬表明した。その段階で山本太郎の出馬はないだろうと僕は考えた。だってもしも立候補したら、宇都宮と明らかに票を食い合う。結果としては共倒れだ。ところが宇都宮から2週間以上遅れて、山本は出馬を宣言した。
「これ以上(国民が)頑張るって何なんだよ。頑張るべきは政治だろ、って話です」
これは多くのメディアが引用した出馬宣言の記者会見における山本の発言の一部。言っていることはもっともだけど、僕も含めて多くの人が、これで小池百合子続投はほぼ確定だと思ったはずだ。空気を読まないにも程がある。困惑しながら嘆く人は、僕の周囲でも少なくない。
(略)僕は山本を支持する一人だ。ただし熱狂はしていない。それを前提に置いて読んでほしい。』

と断った上で、山本太郎とのやりとりを、こう紹介している。

『「......ずっと思っていることだけど、太郎さんは政党政治向きではないと思う。もっと具体的に言えば、党首は無理じゃないかな」
一瞬だけ真顔になってから、山本は爆笑した。
「そうかもしれないです。チームプレーが苦手なのにリーダーは無理ですよね。永田町にはそもそも向いていない。それは自覚しています」
政治は数の力でもある。一人では無理だ。だから彼は新党を旗揚げした。でも組織に帰属するタイプではない。まとめることも不得手なはずだ。
これは山本の弱点であると同時に強みでもある。党議拘束はほぼない。所属する組織や幹部の意向よりも自分の思いを優先する。そんな政党の形を、山本は打ち出すことができるかもしれない。ならばそれは、忖度や世襲や数の論理ばかりが優先されてきたこの国の政治風土を、がらりと変える起爆剤になるはずだ。』


私が、山本太郎に感じつづけていた「違和感」や「わからなさ」や「一抹の不安」の正体は、コレだと思った。

つまり、注目すべきは、山本太郎は『政党政治向きではない』『党首は無理じゃないか』という点であり、言い変えれば「政治家向きではない」という点である。「政治家に向かない男」が「政治家」になっているいう、その「例外性」が重要なのだ。

このことが意味する「山本太郎の可能性」を、森達也は、

『所属する組織や幹部の意向よりも自分の思いを優先する。そんな政党の形を、山本は打ち出すことができるかもしれない。ならばそれは、忖度や世襲や数の論理ばかりが優先されてきたこの国の政治風土を、がらりと変える起爆剤になるはずだ。』

と、まとめている。

これを私なりに言い変えるならば、山本太郎は、その「天然」的な「空気を読まなさ=忖度知らず」という性格(本質的で非凡な〈自由さ〉。その象徴が、都知事選に野党共闘候補としてすでに宇都宮健児が立候補していたにもかかわらず、野党間での票割れを怖れずに、自らも立候補したという事実。あるいは、党議拘束のほぼない、候補者が自由に主張する、本質的に異色な政党を立ち上げた事実など)が、日本の「しがらみ政治」「貸し借り政治」「取引政治」「集団主義政治」を変えてくれる可能性がある、ということだ。

山本太郎が、日本において「新しい民主政治のかたち」を作ってくれる、とまでは期待していない。
私が重要視しているのは、日本国民の「日本の政治は、こういうものだ」という諦観をともなった固定観念や、「何をやっても変わらない」「希望など持ったら、失望するだけ」といった「諦観」を打ち破ることである。

山本太郎が、都知事になったから、れいわ新選組が少々大きくなったからといって、日本の政治が大きく変わることはない。そうではなく、大切なのは、諦めていた人たち(国民)のなかに「変われるかもしれない」という「希望の火」を灯すことなのだ。
そして、それをするためには「平然と常識を覆していく、傍若無人なまでの個性の力」が必要であり、その「暴力的なまでの力(忖度を知らない無神経さと熱さ)」を持っているのは「山本太郎だけ」だという事実なのである。

「革命」が「破壊と建設」である以上、とうぜん危険性をともなう。下手をすれば、潰れた状況が長引く怖れも十二分にある。
しかし、このままでは、日本は、良くて「じり貧」でしかないだろう。

だから、山本太郎という「異星人」の「異星人性」に、私は賭けたい。
「しがらみ」や「駆け引き」や「取引」や「集団主義」に絡めとられてしまわない、その稀有な「自由さ=縛られなさ」に期待したいと思うのである。

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