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璦憑姫と渦蛇辜 15章「願いの虜囚」②

 逆巻く風が家々の屋根を吹き飛ばし、港にもやわれた舟が波に砕かれたその夜、ワダツミは肚竭穢土ハラツェドへ降り立った。
渦巻く雲の間を吼える竜のように稲妻が駆けめぐっていた。王の屋敷では誰も眠らず、火を灯し嵐が去るのを息を殺してただじっと待っている。
南の海の熱を連れてきた風は生温い圧と共に、彼が来たことをタマヨリに告げた。
明かり取りの木窓を押し開けても、外は真っ暗闇だ。

「タマヨリ、嵐が恐しくはないか。叔母どのも起きて火の側におる。そなたも来るがいい」  

様子を見にきた岐勿鹿きなじかに呼ばれても、

「ちっとも怖くない」

と答えた。

「さすがは肚竭穢土王の妃となる者、肝が据わっておるな」

「ならんけど。あのな、ワダツミが来ている」

「なんと、父御のご到着か」

「おれ行ってくる」

「待て、こんな雨風の中……」

しかしタマヨリは躊躇なく雨の中に飛び出した。
「タマヨリ!戻ってこい!」

後を追おうとした岐勿鹿の目の前は真っ白になった。と思うやいなや雷のつんざくような音に押し戻された。

「皇子!武器庫に落雷です」

取り乱しながら家来のひとりが駆けつけた。

「火は?」

「くすぶってはおりますが、この雨なら広がることはないかと」

「王と叔母どの達は無事か?」

「はっ、見て参ります」

「念のため、甕の水を武器庫へ運べ!」

家来達に指示をしながら自らも屋敷の別棟の武器庫へ向かいかけた。
タマヨリの背はもう明かりの届かない場所へ消えかけている。

「誰かタマヨリの供につけ!」

岐勿鹿はそう命じると、右往左往する者たちを統率しながら火元へ向かった。
雨はタマヨリだけを避けて降りしきり、すでにその姿は風の中に消えていた。主人の命令に数人の男達が外へ出たが、何かに足を取られ泥水の中に倒れた。
雨に紛れ『下海げかい』の生き物達が跳梁跋扈していたのだ。暗闇によこしまなもの達がひしめいている。
もう誰も娘を追うことができなかった。


 雨のつぶては暗闇を穿うがち、道は川へと姿を変えていた。その流れに脚を取られそうになるのをなんとかこらえながら、タマヨリは岬を目指して進んだ。
明かりは無論なんの目印もなかった。目の前にあるのは暗闇を煮詰めて濾したねばつくような盲目の黒色だった。吹き荒れる風に耳を塞がれ、もう前後さえ定かでなくなった。
しかし瞼の内側には光が見えた。目を閉じると現れる光だ。
小さく微かな光だった。
それは小さな生き物の心の臓のように生きて、震えながら鼓動していた。

ーワダツミの『波濤はとう』じゃ。おれを呼んでいる。

目を開ければ見えなくなる光が、しかし光には違いなく、何もない真っ暗闇の中でそれだけが道を示した。
歩みはもどかしいほど遅かった。しかし近づいているのは分かった。
タマヨリは静かな心慮の中にいた。

離れているようにみえても、決して離れてはいない。
タマヨリとワダツミの間には距離というものはない。知ろうとも知らぬとも繋がっている。
出会う前、呼び交わす名は知らなくとも、互いのことを呼び合っていた気がする。
お互いがお互いを知る前から、自分の片割れがどこかにいると感じていた。
元はひとつだった。
引き裂かれて生まれたのだ。深い暗い海の底で。
体を裂かれた痛みは忘れても、魂を分けられた痛みを忘れることはない。
ワダツミの痛みは帰郷の念へと集約した。

ー泣きてえほど帰りたい気持ちは、よくわかる。

例えば水と油のような相容れないものに成り変わろうと、共鳴するものがあった。
ワダツミの痛みが己の中にあった。
何も不思議なことではない、とタマヨリは確認する。脈が打つのを感じるように、空きっ腹が鳴るように、右手が左手を左手が右手を難なく掴めるように、ワダツミは在ったのだ。
離れていても、あれは己の半身なのだと。
暗闇の中で、ひとつひとつ噛み締めるようにタマヨリは気づいていった。
そして、ワダツミも同じように感じていたに違いないとわかるのだ。
そうでなくて、どうして島から連れ出しただろう。そうでなくてどうして側にいてくれたのだろう。そうでなくてどうして呼べば来てくれたのだろう。
なんにせよ、心の在りどころのようなものは判るのに、痒い眠いはわからないというのが、なるほどと思われた。
ーそりゃあ、おれとワダツミは違う体で生きておるからな。そこまで分かったら忙しくてかなわん。


  小さな光が眼裏まなうらいっぱいに広がってまたもとの漆黒に戻った時、タマヨリはとても静かな場所にいた。
雨が途切れ嵐の音が突如立ち消えた。暗闇の先コツリと木の板に触れた感触があって、押してみれば戸は開いた。
真新しい桧の匂いがタマヨリを包んだ。目指したやしろに着いたのだった。屋内は外と同じように暗かったが、そこにワダツミがいるのはありありと分かった。

「ここが、俺のやしろだそうだ。狭苦しいことこの上ないな」

ワダツミの声が反響し、暗闇が話かけてくるようにタマヨリは感じた。

「そう云うなよ。この国の人は寝ないで造ったんじゃ」
と云ってそろりそろり声の出所へ足を進めた。

「寝ようが寝まいが俺になんの関係がある?」

「わかんないかなぁ、ワダツミのために大勢の人が働いたんだよ」

「それが?」
と受け流したワダツミは話を変え、

「まさかおまえが肚竭穢土にいるとは思わなかった」
と低く笑った。

「おれだってワダツミが来るなんて思わないよ。でもちょうどよかった。話があって………」

「俺には話はない」

「ワダツミになくたって聞いて欲しいんだ」

「どうしておまえの話など、何度も聞かねばならん」

「……『竜宮』へ帰れる」

タマヨリの一声に暗闇が低く唸った。

磯螺いそらという神さまにおれはあった。色々教えてくれたんだ。それでな、人の争いを諌めて神の威光とかいうのを見せられたら『海境うなさか』を開くって」

両手を握りしめながらタマヨリは伝えた。

「………磯螺というのは『竜宮』の老耄おいぼれだな」

「鯨になったりヤドカリになったりする。色々なものになって海で起こる全てを見る神さまじゃとか、云っておった」

「もちろん、俺を嵌めた者のひとりでもあるわけだが。其奴がいまさら、手のひら返して戻って来いとは、笑止」

「『竜宮』は溶け出してるって」

「なるほど」

暗闇に息が伝った。

「『真海しんかい』の王を追い出したはいいが、『竜宮』を維持する力が劣弱となって助けを乞うと………」

彼の目が細くなったような気がした。タマヨリは慎重に続けた。

「おれたちは元々ひとつだった。ふたつになったのには理由がある、らしいそうだ」

「理由?」

「ああ。おれにはその意味するところが正直分かん。磯螺は『竜宮』には悲しみがないと云った。それでおれに、このおれっていうのにはワダツミも含まれとるが、帰ってこいと云った」

「それで」

「……ワダツミは『竜宮』の礎となって新たな竜宮を創る、おれはその守護となる。………この意味が分かるか?」

「………ああ分かった」

重く感情を殺した声にタマヨリはぞくりとした。

「『竜宮』は王を追放し、代わりに王を永久の機関に変えるということだ」

「なんじゃそりゃあ」

「老耄はそこには悲しみがないと甘言を吐いたのであろう」

「そうじゃ」

「おれもおまえも、心の有りようが変わる。影が消える。それはもはや俺がワダツミでなく、おまえがタマヨリでなくなるということだ。………分からぬようだな、要は都合のいい道具に成り果てるということだ」

「………そんな」

「騙されるな」

「……………それじゃあ、ワダツミは『竜宮』に帰ってももうワダツミじゃないの?帰ったことにはならないの?」

還る・・には違いなかろう。ただ、奴等の思う壺なのが気に食わぬ。………それに………」

「それに」

「俺が戻れば、おまえの望みは永久に叶わない」

「え」

「だろう?」

ワダツミの話には半ば置いていかれていたタマヨリだったが、それは聞き返さずにはいられなかった。
肚津穢土と賽果座の戦を止めることが目下のタマヨリの願いだ。だがワダツミの指す望みとはそれではない。
彼の願いも己の願いももはや区別ないタマヨリには、二国を安寧に導くことが一手に望みを叶える手段である。そう信じた。
ワダツミの云うことには磯螺の言葉には裏があるらしい。しかし、戦は為されず我々は海へ帰る。そこに含まれない望みとは何であろう。

「………おれには、もう………望みが何かとか…何を望んだらいいのかとか、そういうことが皆目分からんのじゃ」

「どこまで頭足りぬやつだ、呆れる……………」

「今は戦を止めたい!それとワダツミを『真海』へ帰してやりたい」

「おまえだって帰りたい場所はあるのだろう」

「………えっ?」


部屋の奥に通路があったのだろう。そこから細い灯りが近づいてきた。

汝兄なせ殿」

艶めかしい声と共に暗闇から麗しくも青白い顔が現れた。

「そのような者と長々とお話しになっても興なきこと」

タマヨリには目もくれず、紫の長い裾を引き摺ってやってくると乙姫はワダツミの傍に立った。

「………母上」

「ふん。勝手にいなくなったと思えば、よだれを垂らして現れて……犬のようじゃな」

タマヨリはびくりと震え、足が一歩下がった。

「何をしに来た」

聞いているのでない、帰れと云われているのは分かった。
しかしタマヨリは灯に照らされて露わになった光景に、顔を引きつらせたまま動けなくなった。

ワダツミと乙姫を取り囲むようにして、そこには屍が何体も横たわっていた。灯が揺れ、その光が伸びる先に死体の数はひとつふたつと増えていった。

「……なんじゃこれは」

ある者は虚に目を見開き、ある者は硬く目をつぶっていたが、どの顔にもまるで血の気はなく、手脚までも真っ白だった。そしてそれは全て若い女だったのだ。

「………ああああ、なんてことだ」

暗闇の中でずっとこれらに囲まれて話していたのだ。

「贄だ」

乙姫の手から灯りを受け取ったワダツミは燭台に火を移しながら云った。
奥の台座を囲むように屍は折り重なっていた。タマヨリは足元に伏して動かない娘の首に触れたが脈はなかった。

「なんで殺した? 」

タマヨリはワダツミを見据えた。彼の視線は乙姫に向き、それからタマヨリへ戻った。

「血浴みをするというのでな、肚竭穢土の王に用意させた。王は、いくらでも用意すると云っておるぞ」

「……惨い」

タマヨリは篦藻岩で捕えられた娘ヒツルのことを思い出した。

「この子らにも帰りを待っとる者がおったろう。こんな所で死にたくはなかったろう。なあ!ワダツミ」

睨みつけるタマヨリに乙姫がピシャリ云った。

「それおまえのとがじゃ」

「母上」

「おまえが妾から奪ったものの代償ぞえ。これは我が夫から妾への贈り物。おまえごときが口を挟むな」

「じゃが母上!」

「どこまでも鬱陶しいやつよ。もしおまえが以前のように妾にその血を差し出すなら、この者達は必要ないがのう。………やはり、娘の血がよく効く……」

試すように乙姫は笑んだ。
タマヨリは項垂れた。じっと伏せた目の端に屍の力ない指先が見えた。

「誰のせいかよくよく考えてみよ。そのかんばせは誰から奪ったものじゃ」

鋭い刃のように母親の言葉が背に降った。
タマヨリは立ち上がるとワダツミに向いた。

「次の贄は必要ない。また来る」

やしろから出ると、もう日が登り嵐は去っていた。
熱気が溶け去った空には雨雲が散っていた。風の中に不意の思いつきのように雨が混ざった。

ー永久に叶わない望みならいくらでもあるのに。

ワダツミの云わんとすることを分からないまま、タマヨリは来た道を戻っていった。




続く




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