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多様性が存在している社会

先日、あるショッピングモールへ行った時のこと。

2歳くらいの女の子が目の前の通路をタッタッターとまっすぐ走って行くのが見え、“あれ?ひとりかな?”と思っていると、後ろから20代くらいの若いお母さんが、女の子の後を追っていました。
その若いお母さんは何も言わず、ただ追いかけていて、そんなに必死な様子でもなく、ある程度子どもを自由にさせているようなスタンスに見えました。

女の子がまっすぐ走って行った先は、非常用ドアでした。
そのドアをガチャガチャと開けようとした為、お母さんが一言二言なにか声をかけたその途端、女の子は火がついたように大きな声で泣き出し、ひっくり返って大騒ぎ。

お母さんはそんなに強く言ったようには見えませんでしたが、その子の反応は強く大きく、おそらくこの女の子の画を通すための常套手段なのだろうということが伺えました。
私は心の中で「お母さんがんばれ〜」とエールを送りながら、その場を通り過ぎました。

今度は、遠くから泣いてぐずっている子どもの声が聞こえ、だんだんと近づいてきました。それは別の親子で、30代くらいのお父さんと2歳くらいの男の子でした。

男の子はベビーカーから降りたくて大音量で「イヤだ〜おりた〜ぁい〜」とジタバタしていました。
それをなだめるように、「はいはい・・あ、ほらなんか面白そうなのがあるよー」などと言いながら、苦笑いでベビーカーを押しているお父さん。
私は、“子どもに何か声を掛けてあげようかな〜”と思いつつも、余計なお世話かもしれないと思い、やめておきました。

その親子を横目に見ながら、今来た通路を戻っていると、最初に見かけたお母さんと女の子がまだ同じ場所にいました。女の子は両手で顔を覆いながら突っ伏して「うぇ〜ん、うぇ〜ん」と泣いていました。お母さんは3歩くらい離れたところで、体操座りのようなかっこうで座り込んでスマホを見ていました。

イヤイヤ期の激しい子どもとお父さんやお母さんの困ったような姿を立て続けに見かけた出来事でした。そして、どちらの親も、無理に泣く子を黙らせようとしている様子はなく、ただ”そのまま”寄り添って、子どもが泣き止むのを待っている感じに見えました。その”そのまま”というのは、なんとなく”何かすると更に泣くから、触れないようにしている・・”という感じも伝わってきました。
それでも”そのまま”にさせている、そのお父さん、お母さんの関わり方を、私は”いいな”と思いながら見ていました。
私は通り過ぎた後で「何か声をかけてあげればよかったかな・・」と思いました。
今思えば、そのお父さん、お母さんは、人の目が気になり、困っていたかもしれません。どうしたら良いか、迷っていたかもしれません。

色々な人がいる世の中です。
子どもが泣いていると「うるさいな」と感じる人もいるでしょう。
「親がもっと叱りなさい」と言う人もいるでしょう。
今の世の中には、そういう”評価・判断”が溢れていて、その”評価・判断”に晒されながら、子育てをしている人が多いのではないでしょうか。

“多様性”という言葉が身近になってきましたが、それは、性的マイノリティや障がいを持った人との違いを認めるという、限定的な感じがしています。
それだけではなく、日常の中でも色々な人がいてもいい、いろんな子どもが居て、この子なりの表現をしてもいい、様々な考えを持っていてもいい・・という世の中であってほしいと心から願っています。

そうなることできっと、もっと子育てがしやすくなり、ショッピングモールの中でも、子どもたちの声が響き渡り、泣いていても目立たないくらいになるのではないかと思います。
子どもが泣くのを「泣いてもいいんだよ」とおおらかに見守るような社会になれば、お父さん、お母さんも安心して子育てができるようになるでしょう。

次、また同じような場面に出会った時、お父さん、お母さんに「子どもに寄り添っていて素晴らしいですね」と、力付ける言葉が出てくる私でありたいと思いました。





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