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出自の怪しい人たち

 私の古い知り合いに、家系図を作った人がいる。

 その人は史料や墓誌などを地道に調査し、自分の先祖を調べたそうだ。

 行きついた祖先は伊予の豪族で、昔戦で負けて落ち延び、紆余曲折あって現在の場所に落ち着いた、と私に話してくれた。

 この話を聞いて、私も作ってみようかな、と考えてみた。けれど、周囲の反対が多かったので辞めた。


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 歴史上の人物には出自が怪しい人が数多くいる。

 この手の人物は、安土桃山以前に多く、それ以降はどんどん減ってゆく。

 これに関しては、江戸時代以降からは、戸籍制度がしっかりしてきたからだと考えている。

「戸籍制度? そんなの江戸時代にあったのかい?」

 そう思った人がいるかもしれないので話しておくが、江戸時代には戸籍制度らしきものはあった。ただ、奉行所や村役場といった自治体がそれを管理するのではなく、お寺が管理する形だった。そのため、大枠は現代のそれと同じだが、細かいところは違うものだと言っていい。これは一般的に、宗門改人別帳とか過去帳と呼ばれているものだ。

 ちなみに、武士は武士で、それぞれの大名家が管理している戸籍のようなものがあったそうだ。

 江戸時代の歴史人物の正確な出身地や身分、父母の名前といったものが判明しているケースが多いのはそのためだ。

 江戸以前に出自が怪しい人が多いのは、戸籍らしきものがないこともある。だが、明確な身分制度が確立していなかったことも大きい。

 明確な身分制度が確立していないので、力と財産があれば「武士」を名乗れる。出自は勝手に源氏や平氏、藤原氏を名乗っていた。官位については、幕府の役人が朝廷に口利きしたり、金で買ったりしていたので、勝手に名乗れたも同じだった。実力がものを言う戦国時代には特に、その傾向が強かった。

 だから、油屋であった斎藤道三の父や薬屋の小西行長が出世できたり、徳川家が堂々と源氏を名乗れたりしたわけだ。ただ、戦国以前はそう上手くは行かないが。


 出自の怪しい人物について、少し話していきたい。

 個人的に出自が怪しいと思う人間は、平清盛、豊臣秀吉、明智光秀辺りだろうか。ほとんどが江戸時代以前の人間だ。

 他にも楠木正成や山本勘助がいるが、ここでは有名なこの3人に絞って話していこうと思う。

 平清盛の実際の両親は、誰なのかわからない。

 系図では、清盛の父親は平忠盛ということになっているが、実は「実は白河院のご落胤だった説」がある。

 白河院のご落胤だった説は、自身を助けてくれた忠盛に、白河院が白拍子で愛人の祇園女御を下賜した。下賜された祇園女御の身体には赤ん坊が宿っており、その子が清盛だった、というものだ。こちらの説は、『平家物語』でよく語られている。だが、滋賀県のある神社から、「白河院の近くにいた女」と記された古記録が発見された。

 そのため、清盛の母親は、かなり白河院に近しい人間だったと考えられる。

 父親はどうなのかはよくわからない。だが、清盛の人生最初の叙位で、皇族や摂関家の子弟と同じ待遇を受けている。このようなことから、実父が白河院である可能性は、完全に0であるとは言えない。

 明智光秀は言わずと知れた、本能寺の変で信長を殺した男だ。昨年の大河で長谷川博己が演じたのが記憶に新しい。

 光秀の素性は一般的に、美濃土岐氏の支流明智氏の出と言われることが多い。『国盗り物語』や『麒麟がくる』では、この説が取られていた。

 この説は『明智軍記』などの江戸時代に書かれた歴史小説が基なので、その真贋が怪しい。

 また、光秀の出身地とされる場所が美濃以外にもあることが挙げられる。美濃以外で光秀の出身地とされているのが、近江や越前だ。

 近江説は美濃にいた光秀の先祖が近江に定住し、ここで光秀が生まれたという説。越前説は、鍛冶屋の息子だった光秀が、家業を継ぎたくなくて侍の道を選び、明智光秀という名を名乗ったという説だ。

 だが、越前説は論拠となる文献を史実と比較すると、矛盾が生じることから、トンデモ扱いで終わっている。

 個人的な考えではあるが、明智光秀の出身は美濃だったのではなかろうか? そうでなかったとしたも、先祖が美濃ゆかりの人物だったのだろう。礼儀作法などにも明るかったことを考えると、そこそこの名族の出だったのではなかろうか?

 当時の武士は、江戸時代の武士とは違って、各地の大名の元を渡り歩いていた者もいた。そのため、一時期浪人の身になっていたが、後でどこかの大名に仕えたというケースが少なくない。

 光秀の先祖も、もしかしたら、そうした「主家を探してさすらう浪人」だったのかもしれない。あくまで私の見識ではあるが。

 最後に話すのは豊臣秀吉。

 秀吉の出自は、上に挙げた2人よりもよくわからない。ある文献では百姓の子、またある文献では足軽の子といった具合で、ばらつきがある。

 よくわからない出自のせいか、石井あゆみの漫画『信長協奏曲』では、今川の忍びとして描かれていた。ここでの秀吉は、「木下藤吉郎」という人物を殺害し、なり変わって織田家に仕えたことになっている。

 また、ドラマ版『信長協奏曲』では、織田信長(本人)の初陣で村を焼かれ、両親を殺されたことで信長を恨んでいるという設定だった。

 おそらく秀吉は、元の身分が卑し過ぎて、記録に残っていないだけなのではないか? 私はそう考えている。

 少し調べてみると、若いころに乞食同然の時期があった説や、孤児だった説まである。それに、秀吉自身が「父母の名前を知らない」と話していた記録もあることから、出自が自分でもわからなかった可能性が高い。自分でも何もわからないのなら、記録を残そうにも残せまい。

 うさんくさい逸話が多いのも、こうしたことを隠すためのものだったのではなかろうか?

「出自がわからない」人物のことを調べていると、どこか影のある人物が多い。ここで言う影とは、悪という意味と暗い過去を含んだもの。時代の闇に葬られた真実だ。

 それらは闇の中にあるので、表に出てくることはほとんどない。だが、時代や社会の闇に葬られた真実を、少しでも光の当たる方向へと引きずりあげることはできる。それが正しいやり方であっても、トンデモであってもいい。

 歴史に詳しい人たちの使命は、そうした闇を、光が当たるところへと掘り起こすことなのかもしれない。

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