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みられる、ということ

親になって、はじめて自分が出す視線が気になるようになった。
見守りが“監視”になっていないか?
無言の圧や期待の押し付けになってはいないか?
会社で後輩に指導する時とはまた違う。
子どもは大抵「みて!みて!」と関心を引こうとしてくれるが、大人と同じく、子どもにだってそっとしておいてほしい時やみられたくない時はあるはずだ。

親からの期待のまなざしが嬉しい子もいれば、プレッシャーになる子もいる。
のびのび寄り道しながら行きたい子も、猪突猛進で走りたい子もいる。
タイプに合わせた寄り添いできるかは、親の観察と勘にかかっている。親の役割は、付かず離れずの伴走と、巣立つまでの衣食住の生活基盤を与えることだと思っている。


期待されること自体に、悪い気がするひとはさほどいないだろう。
期待の度合いが、本人が受け止められる範囲を超えてか。他者からの承認欲求だけで行動を決めるようにないか。
アクセス環境さえあれば簡単に誰とでもつながることができるこの世界で、自分の手綱を他人に委ねるのは、とても危険な気がする。


やりたいこと、叶えたいことが自分からわきあがってきたことなのか。他者からの賞賛や共感ほしさに突き動かされたことなのか。
その線引きは極めて難しいし、混ざりあっていることのほうが多いだろう。
ただ、動機の主人公は「自分」であってほしい。母が怒るからやめとこう、ではなくて、
母に怒られるの面倒だし私はこうしよう。
母が褒めてくれるからこうしよう、ではなくて、
褒めてもらえると私が嬉しいから頑張れる。
ーという具合に。


みられることのポジティブな側面といえば、悪事や事故の抑止力になり、危険回避につながることもある。
善悪の判断・加減が難しいうちは、子どもをある程度親の視界に入れておく必要があるのも事実だ。
ただ、がんじがらめに監視下に置くのではなく、広めの余白は不可欠だ。
秘密を持つ中でプライバシーについて考えたり、自分から冒険して成功や失敗を味わったりする中で学べることは多い。
自分で経験値を稼ぎ、自信をつける。
子どもにたくましく育ってほしいならば、出したくなる手を引っ込めて、親も多少のけがは受け入れる覚悟はしなくてはならない。


みられる、には様々な感情が込められうる。
みられようが、みられまいが、自分は自分。
ぶれずにそこにいる強さ、しなやかにかわす軽やかさを身につけられるように自分も精進せねばな、と思う今日この頃だ。


監視、といえばこの映画。
本人を取り巻く環境自体が…なので
少し状況は違うけれど、
みられている自覚がない監視は恐怖でしかない。


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