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【日露関係史9】シベリア出兵

こんにちは、ニコライです。今回は【日露関係史】第9回目です。

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1917年の革命によって帝政ロシアが崩壊、史上初の社会主義政権であるソヴィエト政権が樹立したことで、国際情勢は大きく転換していきます。ソヴィエト政権を警戒する英仏は対ソ干渉戦争を計画し、米国、そして日本にも出兵を求めました。当初は慎重な態度を示していた日本政府でしたが、最終的に出兵を決断しますが、その後泥沼の戦争へと突入していくことになります。今回は、1918年から7年間に及んだシベリア出兵について見ていきたいと思います。


1.ロシア革命の勃発とシベリアへの出兵

1917年年10月25日(西暦:11月7日)に勃発した十月革命において、ウラジーミル・レーニン率いるボリシェヴィキが政権を獲得し、史上初の社会主義政権が樹立します。第一次大戦開戦当初から即時停戦を呼び掛けていたボリシェヴィキは、1918年3月3日にドイツと単独講和を結びますが、ロシアの大戦から一方的に離脱は、同盟関係にあった英仏に衝撃を与えました。これによりドイツが西部戦線に集中し、戦況が大きく変わる可能性があったからです。英仏はソヴィエト政権を打倒し、新たな政権をロシアに打ち立て、東部戦線を再構築しようと計画します。

1918年5月頃の勢力図
現代から見ると英仏の反応は大げさに見えるかもしれないが、1918年前半時点では、まだ連合国と同盟国のどちらに勝機があるのかは不明であった。
CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=942048

英仏は米国、そして日本にも出兵を呼びかけます。ウッドロー・ウィルソン米大統領は「ロシア国民は自分たちの問題を、外部からの干渉なしに解決しなければならない」としてこの誘いを拒否します。日本でも、元老・山県有朋や首相・寺内正毅らは、米英との共同でなければ出兵しないとする慎重論を説きました。一方、戦前からロシアとの関係が深く、帝政ロシアへの郷愁が強かった本野一郎後藤新平、社会主義政権の樹立に危機感を強めた参謀本部は、積極的な出兵を主張しました。

田中義一(1864‐1929)
長州出身。当時の階級は陸軍中将で、参謀次長を務めていた。慎重な政府をよそに独自の出兵計画を進めていた。
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1918年5月14日、日米に出兵を踏み切らせる事件が起こります。オーストリアと戦うためにロシアに協力していたチェコスロヴァキア軍団が、ソヴィエト政権に反旗を翻し、シベリアで武装蜂起を起こしたのです。英仏はチェコ軍団救出を名目に日米に再び出兵を呼びかけると、民族自決の原則を掲げたウィルソン大統領はチェコ軍団に共感し、支援することを決定します。米国が出兵を決定したことで、日本でも慎重論が一掃され、一気に出兵へと傾斜していき、8月2日にシベリア出兵が内外へと宣言されました。

チェコスロヴァキア軍団
オーストリアからの独立を目指すチェコ人とスロヴァキア人によって構成された4万人の部隊。
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2.シベリアでの攻防戦

8月12日、ウラジオ派遣軍ウラジオストクに上陸し、シベリア出兵が本格的に開始しました。シベリアへの出兵は、日米双方が7000名ずつとされていましたが、日本政府はこの機に大陸での影響力を拡大することを狙い、10倍以上の7万2400人の兵士を送り込みます。さらに、ウラジオストク周辺とされた出兵地域についての合意を破り、沿海州シベリア鉄道沿いに北上し、中露国境地帯のアムール州、さらに満州鉄道で満州を北上した部隊が中露国境を越え、ザバイカル州に進軍しました。

ウラジオストクでパレードを行う各国派遣軍
各国のシベリアへの派兵数は米軍9000、英軍7000、中国軍2000、伊軍1400、仏軍1300であり、日本軍の規模は群を抜いていた。
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快進撃を続けた日本軍でしたが、10月を過ぎてが訪れると、極寒に慣れていない兵士たちはその寒さに苦しめられます。寒いときはマイナス40度にもなるシベリアでは食糧や飲み水さえ凍り付いてしまい、さらに多くの兵士が凍傷を患うようになりました。さらに、ゲリラ戦を展開するパルチザンの攻撃にも苦戦し、1919年2月には、田中勝輔陸軍少佐率いる大隊が全滅し、その捜索にやってきた部隊が次々に包囲殲滅されるという事件も起こりました。

シベリアでの日本兵
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日本軍は、アレクサンドル・コルチャークが最高執政官を務めるシベリアの反革命政権を支援していました。しかし、1919年4月にはソヴィエト政権が攻勢に転じ、5月25日にウラル地方の中心地であるウファ赤軍によって奪還されると、コルチャーク軍東へと後退していきます。赤軍の東進を防ぎたい日本軍は、コルチャークを支援するために、1920年1月1日に本庄繁陸軍大佐率いる支隊をイルクーツクへと派遣しました。しかし、時にすでに遅く、1月5日には全市がボリシェヴィキの支配下に置かれ、コルチャークも捕えられたため、19日に本庄支隊は撤退していきました。

アレクサンドル・コルチャーク(1874‐1920)
ロシア帝国の海軍軍人。1918年にクーデターによってシベリアにおける権力を握る。一時はモスクワ攻略をも目指すが、その厳しい統治によって民心は離れていき、1920年1月に赤軍に引き渡され、処刑される。
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3.列強の撤退と日本の独行

列強諸国は、落ち目のコルチャークに見切りをつけ、1919年10月末にはイギリス軍が、翌年8月にはフランス軍シベリアから撤兵しました。米国も、出兵の理由となったチェコ軍団がソヴィエト政権と休戦協定を結んだため、1920年1月5日には撤兵を決定します。

ロバート・ランシング(1864‐1924)
米国国務長官(外務大臣に相当)。もともとシベリア出兵には反対であり、病床のウィルソン大統領を説得し、撤兵に踏み切った。
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こうした状況下、もともと出兵に反対だった首相の原敬は、段階的に撤兵していくことを決定し、この方針に田中儀一陸相も同意しました。しかし、原もウラジオストクや北満州における権益確保にはこだわったため、ウラジオストクと満州の中東鉄道沿線には軍を駐留させ続けることを閣議決定します。

原敬(1856‐1921)
大正時代を代表する政治家。明治維新以降初の東北出身の首相であり、華族に列さられることを拒否したことから「平民宰相」とも呼ばれる。
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日本軍は1920年2月にはアムール州からの撤兵を開始し、5月24日には、ソヴィエト政権によって樹立された緩衝国である極東共和国と停戦交渉を行い、6月1日ににはザバイカル州からの撤兵を決定します。しかし、原の撤兵方針に参謀本部は不満を募らせており、同年4月にはウラジオ派遣軍が独断で沿海州を武力制圧する事件が起きました。政府内では参謀本部廃止論も噴出するなど、政府と参謀本部の溝は深まっていきました。

極東共和国
日本軍との直接衝突を恐れたソヴィエト政権によって、1920年に建国された緩衝国家。支配領域は、ザバイカル州、アムール州、沿海州、カムチャツカ州、サハリン州とされたが、建国当時に支配が及んだのはザバイカル州西部のみであった。
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4.北サハリンと間島への出兵

日本政府は撤兵を進めるとともに、新たな地域への派兵も進めました。

まずは北サハリン出兵であり、その口実となったのが尼港事件です。尼港とはアムール川の河口に位置するニコラエフスクのことで、この町は1918年9月に日本軍が占領していましたが、1920年2月24日にはパルチザンによって占領されてしまいます。追い詰められた日本軍はパルチザンを奇襲しますが、戦闘は日本軍の敗北に終わり、街を脱出することができた十数名を除き、ニコラエフスクにいた軍人351名、民間人384名が虐殺されました。

廃墟となったニコラエフスク
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尼港事件は日本政府に衝撃を与え、その惨状が報道されるや世論は沸騰、野党からも原内閣の失策を非難する声が上がりました。原内閣は尼港事件が解決されるまでの間、北サハリンを「保障占領」することを閣議決定し、4月にサハリン州派遣軍が上陸、8月には中心都市のアレクサンドロフスクにサハリン軍政部を設置します。

サハリン(樺太)
幕末以来、日本とロシアはサハリンを巡って争っていたが、1875年の樺太・千島交換条約でロシアの全島領有が定められた。その後、日露戦争の際に日本軍が全島を占領、1905年のポーツマス条約で南半分が日本に割譲されていた。
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もう一つは間島への出兵です。間島とは、中国と朝鮮、ロシアの三ヵ国の国境が接する地方であり、1911年以降、日本の植民地となった朝鮮半島から逃れた多くの朝鮮人運動家が逃げ込んでいました。1920年春ごろから、この地域の日本人居留民と抗日勢力との紛争が頻発し、10月2日の日本領事館襲撃をきっかけに、間島への出兵が決定されます。田中陸相は、間島での「討伐」を成功させるためには、沿海州南部で日本軍がにらみを利かすことが必要と考え、沿海州からの撤兵を遅らせることになります。

間島の位置図
赤い部分が間島。日本軍の出兵は1921年5月まで続いたが、その蛮行は国際的な非難を浴び、中国政府とも関係を悪化させた。
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5.日本軍撤兵と日ソ基本条約の締結

長期化する日本軍の沿海州駐留、さらに北サハリンや間島への新たな出兵は、米国をはじめ諸外国から批判され、日本は外交的に孤立化していきました。国内でも1920年末には興奮が冷め、野党や新聞各紙からは出兵批判の噴出し、撤兵を求める声が強まりました。こうした中、1922年に首相となった加藤友三郎シベリアからの撤兵を決定します。8月22日からウラジオ派遣軍の撤兵が開始し、10月25日には完了、反革命派の牙城であったウラジオストクは極東共和国へと引き渡されました。

加藤友三郎(1861‐1923)
広島市出身の海軍軍人で、日本海海戦では東郷平八郎とともに連合艦隊の指揮を執った。実直な裏方という趣で、国民からの人気はなく、「燃え残りの蝋燭」とあだ名された。
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最後まで残ったのは、北サハリン派遣軍でした。加藤もこれに関しては尼港事件の解決とセットで考えており、ロシア側との合意を得られずにいました。ここでいう「尼港事件の解決」とは、第一に北サハリンの領土売却であり、それが無理であれば50~60年の租借、それもかなわなければ利権の供与、と考えられていました。1923年に加藤は亡くなり、跡を継いだ山本権兵衛は交渉再開に消極的だったため、北サハリンからの撤兵は延び延びとなってしまいました。

アドリア・ヨッフェ(1883‐1927)
中央左。ソ連の駐華全権代表で、北サハリンを巡って日本との交渉にも当たる。しかし、合意を得ることができなかったため、責任を取って解任される。
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事態が解決したのは、1924年5月に始まった北京会議においてでした。日本側は「保障占領」を終わらせてソ連と国交を結び英米からの信頼を回復しようと考え、一方、ソ連側もイギリスとの関係悪化の補償を得たかったため、双方が妥協することになります。1925年1月20日、日ソ基本条約が調印され、同条約では撤兵期限は同年5月15日とすることが定められ、さらに、日本側は北サハリンにおける炭田と油田の開発利権を獲得しました。こうして決められた期日までに、2000名のサハリン州派遣軍及び1万名以上の民間人が北サハリンから立ち退き、7年間に及んだシベリア出兵が終結しました。

北サハリンの石油採掘地点(1939)
日本がシベリア出兵で得た唯一の成果は石油利権の獲得であり、三菱財閥の出資により創業された北樺太石油株式会社が採掘に当たった。しかし、1930年代に入るとソ連からの圧力が強まり経営が悪化、1944年に日本は利権を放棄することになる。
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6.まとめ

シベリア出兵は、1918年から1925年までの7年間をかけ、当時の日本軍の半数に当たる7万人以上の兵士を動員し、3000人以上の戦没者を出しましたが、得られたのはわずかに北サハリンにおける利権だけでした。当初出兵に慎重だった日本政府が、なぜこれだけ長引かせてしまったのかといえば、それは増大する出費と戦没者に対し、「手ぶら」で撤兵する決断を下せなくなってしまったことにあります。こうした引くに引けなくなってしまう様は、後の日中戦争及び太平洋戦争における政府の姿を想起させます。

北方領土問題やシベリア抑留などと比べると、シベリア出兵は知名度が低く、すっかり「忘れられた戦争」になってしまっている感があります。しかし、「同盟国に請われて出兵」し、「相手の領土を不法に占拠」するというのは、ソ連が日本にしたこととまるで同じではないでしょうか。「人の振り見て我が振り直せ」という言葉がありますが、ソ連の悪行を非難するのであれば、かつて日本も同じことをロシアに対してしたことを忘れるべきではありません。「被害の歴史」ばかり叫んで、「加害の歴史」を忘れるというのは実におかしな態度だと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

シベリア出兵については、こちら

明治維新から太平洋戦争までの日露関係史については、こちら

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