【日露関係史3】日露北方紛争
こんにちは、ニコライです。今回は【日露関係史】第3回目です。
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寛政4年(1792)のラクスマン来航を機に、日本では「鎖国論」が台頭し、幕府は蝦夷地の直轄化と北方防備の厳重化に努めるようになりました。そうした中、ロシアは交易を求め再び日本へと接近しますが、これが日露の最初の紛争を引き起こすことになります。今回は文化年間に起きた日露の北方紛争について見ていきたいと思います。
1.蝦夷地直轄化と防備強化
ラクスマン来航に続き、寛政8‐9年(1796‐1797)頃、イギリス船プロヴィデンス号が北海道に姿を現す事件が起きると、幕府では蝦夷地の防備強化が急務の事態として浮上しました。松平定信失脚後の寛政10‐11年にかけて、幕府は蝦夷地巡察隊を派遣し、さらに松前藩から東蝦夷地を上地させ、直轄化することを決定しました。上地は当初7年とされましたが、享和2年(1802)には永久上地とされました。
蝦夷地の警備には、津軽・南部の両藩から兵500名ずつが派遣され、択捉島を重点に配備されました。当時択捉島の隣の得撫島には、イルクーツクの大商人であるグリゴリー・シェリホフが40名のロシア人を送り込んでおり、幕府にとって択捉島が対ロシア政策の最前線となっていたのです。しかし、厳寒の蝦夷地における越冬や、塩漬けの保存食ばかり食べることによる栄養不足から、毎年100名前後の死亡者が出たため、両藩にとって蝦夷地への派兵は大きな負担となりました。
幕府はアイヌたちがロシア人に接近しないよう、彼らを撫育することにも力を入れ、和人とアイヌとの交易を役人の監督のもとに行い、不正な取引を禁止するとともに、アイヌの老人・病人・子供へ手厚い手当を支給しました。また、アイヌが日本に属していることをロシア人に示すために、彼らに日本語の使用を奨励したり、入れ墨や耳輪を禁じて文化・風習を日本風に改めさせようともしました。
2.レザノフ来航
日本が蝦夷地の防備強化を図っている中、文化元年(1804)9月6日、遣日使節ニコライ・レザノフを乗せたナジェジダ号が長崎に現れました。ナジェジダ号には、寛政6年(1794)にアリューシャン列島に漂着した仙台若宮丸漂流民たちも乗船しており、レザノフは彼らの送還に乗じて日本と通商を樹立しようとしていました。さらに、彼はかつて来日したラクスマンが受け取った来航許可証(信牌)と皇帝アレクサンドル1世の国書も携えていました。
しかし、ラクスマン来航時とはすっかり時世が変わっており、日本側のレザノフに対する対応はあまりにも酷いものでした。ロシア人たちは当初上陸さえ許されず、なんとか許可を得ましたものの、あてがわれた小屋は手狭で、夜間になると鍵をかけられるなど、軟禁状態に置かれました。さらに、待てど暮らせど幕府から回答が来なかったため、レザノフは苛立ちを募らせました。
ようやく日露会談が行われたのは、半年後の翌年3月のことでした。しかも、幕府から回答は「国書は受け付けないし、交易も許可できない」というものでした。会談は翌日も行われましたが、同じようなやり取りで終わり、国書も贈物も受け取りを拒否されてしまったため、結局ロシア側は漂流民を引き渡すことしかできませんでした。3月19日にレザノフは失意のうちに長崎を去りました。
3.文化魯寇事件
レザノフは日本側の非礼に憤るとともに、日本と交易を行うにはもはや武力に訴えるしかないと考えました。長崎出航後、ロシアの北米植民地視察に向かったレザノフは、そこでフヴォストフとダヴィドフという2人の海軍士官に日本襲撃を命じました。1806年7月、二人はユナノ号とアヴォシ号という2隻の船で、日本へ向けアラスカを出発しました。
フヴォストフ率いるユナノ号は単身樺太へと向かい、中心地であるクシュンコタンを襲撃し、日本人4人を拉致したうえ、樺太領有を宣言する銅板を打ち付けました。翌文化4年(1807)、ユナノ号はアヴォシ号とともに今度は択捉島を襲撃し、70人のロシア兵によって230人の南部・津軽藩守備隊を敗走させました。日本側は大砲・小銃が劣悪で、弾薬不足だったこともありますが、太平の夢に慣れた武士たちはろくに戦うこともせずに逃げ出してしまったのでした。
フヴォストフとダヴィドフは食糧や武器、衣料品など膨大な略奪品を積み込み、オホーツクへと帰還しました。しかし、日本襲撃の噂はすでに広まっており、オホーツク長官ブハーリンはただちに二人を逮捕しました。その後、二人は脱獄してブハーリンを訴えるためにペテルブルクへ向かいますが、当時スウェーデンと戦争中だったため、ロシア政府からは艦隊勤務を命じられます。二人はこの戦争で武勲を立てたため、アレクサンドル1世は二人を報償しない代わりに日本襲撃の罪を帳消しにすることにしました。
4.ゴロヴニン幽囚事件
ロシア人による樺太・択捉島襲撃を受け、幕府は南部・津軽藩だけでなく、秋田、庄内、仙台、会津の各藩から3000名の増援を派兵し、防備強化を図りました。それとともに、文化4年(1807)には「ロシア船打払令」を発布し、ロシア船と分かれば厳重に打払うよう命じました。さらに、ロシアが大軍を率いて再び攻めてくるという噂や、過激な攘夷論までも登場し、日露関係の緊張は頂点に達しました。
こうした中、文化8年(1811)、千島列島の測量調査を行っていたヴァシリー・ゴロヴニン率いるディアナ号が、食糧と薪水の補給のため、国後島に現れました。ゴロヴニンはフヴォストフらの襲撃事件を知っていましたが、事件は個人の勝手な行動であり、二人がすでに処罰されたと説明すれば、日本人にもわかってもらえると考えていました。ところが、日本人役人と交渉しようと自ら上陸したゴロヴニンは、一瞬の隙をついて捕縛されてしまいます。
ディアナ号に残っていた副艦長リコルドは、日本側と交渉する余地がないと判断し、いったんオホーツクへと帰還してしまいました。捕囚されたゴロヴニンは、箱館及び松前にてフヴォストフらの襲撃事件について問いただされ、ロシア政府とは何の関係もない海賊行為である説明しました。尋問を行った松前奉行らはゴロヴニンの主張を事実と認めましたが、老中土井利厚は厳しい態度をとり、ロシア人の帰還を許さず、ロシア船が来航した場合は容赦なく打払うよう命じました。
5.日露間の緊張緩和
オホーツクに戻ったリコルドは日本遠征許可を上申しますが、ナポレオン侵攻前夜のロシアには極東に軍隊を派遣する余裕はなく、却下されてしまいます。リコルドはフヴォストフが拉致した捕虜中川五郎次と、前年にカムチャツカで保護された摂津歓喜丸漂流民6名をディアナ号に乗せ、再び国後島へと向かいました。リコルドは五郎次らを派遣して、幕府側と交渉させますが、幕府からの回答は「ゴロヴニンら捕虜全員を処刑した」というものでした。リコルドはその情報が本当であるか確認しようとしましたが、五郎次も漂流民全員も日本側に収容されてしまい、連絡手段を失ってしまいました。
そこで、リコルドはたまたま通りかかった商船観世丸を拿捕します。この船に乗っていた船主高田屋嘉兵衛は択捉島場所請負人となった豪商で、幕府側の事情にも通じた人物でした。嘉兵衛はリコルドにゴロヴニンの無事を伝えるとともに、彼らを解放するには、フヴォストフらの襲撃事件がロシア政府と関係がないことを示す証明書を用意するように助言しました。
文化10年(1813)4月、再び国後島を訪れたリコルドは、嘉兵衛を仲介役として幕府側と交渉しました。すると、幕府側は嘉兵衛の助言通りの要求をしてきたため、リコルドは急ぎ帰国してイルクーツク総督及びオホーツク長官に書簡を発行してもらい、同年9月末に箱館に入港しました。この証明書によって幕府側はようやくゴロヴニンの解放を認め、日露の紛争は流血沙汰なく解決することになりました。
6.まとめ
レザノフ来航から始まった日露関係の緊張は、文化魯寇事件によって最高潮に達しますが、ゴロヴニン事件を経て収束に向かいました。事態が全面的な武力紛争にまで発展しなかったのは、紛争において死者が一人も出なかったという偶然に加え、冷静な判断力を持つリコルドと、ロシア側の事情を理解して的確な助言をした嘉兵衛の活躍によるところが大きいと思います。
ゴロヴニンは帰国後、日本での体験をまとめた『日本幽囚記』を発表しました。これは17世紀末に出版されたエンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』以来となる本格的な日本論であり、英語、フランス語、ドイツ語など各国語に翻訳されました。幽囚中に丁重な扱いを受けていたゴロヴニンは、同書でも日本人を高く評価しており、「キリスト教徒を迫害する野蛮な国」といった西洋における日本のイメージを刷新しました。
しかし、ゴロヴニン事件以降、日露関係はしばらくの間途絶してしまいます。ロシア側は帰国したゴロヴニンの助言に従い、日本との不和を避けるために樺太・千島での南下を自重するようになり、また、日本側も大津浜事件をきっかけに「異国船打払令」を発布し、鎖国政策を強化していったからです。両国が再び接近するのは、幕末を待つことになります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
参考
ロシア帝国時代の日露交流全般については、こちら
ロシアへと渡った日本人漂流民については、こちら
ロシアのシベリア・北太平洋への進出については、こちら
千島列島をめぐる日露の歴史につては、こちら
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