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2020年6月福島取材⑬/TVには映らない場所

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<続き>

6月の福島取材は3日目。

前日、2日目のいわき以北滞在は約11時間、積算線量は5.16μSv。1時間あたり0.469μSv。ただし、そのうち大熊滞在時間は6時間半で、4μSv以上は積算でいってたと記憶しており、僕が歩いたエリアのトータルの被曝量は双葉とほぼ同等とみなしていいと思う。これまで、浪江や富岡で歩いた時と比較すると、1〜3μSvは多い。やはり、特定復興再生拠点区域は、あくまでも帰還困難区域なのだ。

3日目のこの日は、朝8時にホテルロビーでOさんと待ち合わせて、車で双葉に向かい、帰還困難区域に入域する。もっと早い時間から動いてもいいのだが、スクリーニング場が開くのが9時なので、この時間にせざるを得ない。

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この日、Oさんはウインドブレーカーを着てきた。防護服の代わりだという。3月に双葉町の特定復興再生拠点区域への立入規制が緩和された際、ロイターで報道された防護服姿を、自民党の渡辺康平福島県議によって揶揄され、SNSで炎上状態になったためだ。

Oさんが取材を受けたのは、立入規制が緩和される3/5以前だった。それまでは双葉町はほぼ全域が許可がなければ入れない「帰還困難区域」だった。帰還困難区域へ入域する際には、スクリーニング場で防護服を受けとり、それを着ることが推奨されている。にも関わらず、立入規制緩和前から双葉町は議員団や海外からの見学者などを、防護服なしで帰還困難区域に案内していた。渡辺康平県議もその一人で、自分で調べることもせずに、「防護服なしで入域出来る」と勝手に思い込んでいたのだ。

「風評」と誰かを攻撃すれば「復興支援」になるとでも考えているのか、現場を知らない匿名の投稿者が、原発事故の被害当事者を面白がって誹謗中傷する。当事者がこうやって心ない人々によって攻撃され、今や誰もが発信者になれる時代だというのに口を封じられてきた。所詮はバーチャルな空間で、くだらない空中戦だとして無視することも可能だが、人はそんなに強く出来ていない。匿名の見知らぬ誰かに自分の知らないところで、不当な理由で罵られることは、僕だったら許せない。ましてそれを招いたのが公職にある者とは、尚更許されることではないと思う。

今もその県議は謝罪も削除もしていない。無視を決め込んで、自分は復興支援をしているつもりで汚染水放出を押し進めようとしている。しかしどうにも理解出来ないが、こんな議員が選挙によって福島県民に選ばれたということは事実なのだ。

話が脇にそれた。

この日、いわきからOさんの運転する車で常磐道を通って双葉に向かった僕は、途中立ち寄った楢葉PAで奇妙な光景を目にした。

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(PA内を素通りしていくトラック。)

所謂「除去土壌等運搬車」、放射性物質で汚染された汚染土を運ぶ3台のダンプが、PAに入ってきたと思ったらそのまま素通りして出て行ったのだ。1台だけならば、間違えて入ったのかもしれないが、3台も間違えて入ってくるはずがない。一体何のためにPAに立ち寄り、そのまま素通りして行ったのか、今もその理由がわからない。

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(常磐道の帰還困難区域を走る車内の線量。)

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(浪江に新しく出来たホテル「双葉の杜」)

浪江ICで常磐道から降り、加倉スクリーニング場で防護服を受け取って、まずは双葉駅の北側へ。ここで僕は、東京新聞の連載に掲載するための写真撮影をOさんにお願いする。

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(ここで東京新聞に掲載する予定の写真を撮影する。このフレコンバッグはなくなったとSNSで僕のイラストを見た人が書き込んでいたが、あれは嘘だ。)

その後、お墓まいりに同行、そして双葉町が見渡せるという白山神社へ案内してもらった。

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(木に近づくと線量が上がる。)

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(常磐線が走り抜ける。)

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このエリアの空間線量は高めで、山や林に近づくと1.5〜3.0μSv/h近くまで上がった。8月や10月に訪れた際は、5.0μSv/hを超える場所も見つかった。除染をした場所としてない場所で線量がかなり違う。しかし、除染したところでも、0.8μSv/hはある。そんな場所のすぐ近くに公営住宅を建て、2022年の帰還を目指すというが、果たしてここで子育てをしたいと思う人はいるのだろうか。

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(神社の脇の廃屋。)

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白山神社のある山から双葉町を見渡す。遠くに見える町役場の向こうには原発の排気筒が見える。どうにも恨めしい光景だ。

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この日は、この白山神社の境内までしか登らなかったが、10月に同行した双葉の方によれば、ここからさらに上に行くと展望台があるという。次回双葉を訪れた際は、やや危険を伴うかもしれないが、さらに登ってみたいと思う。線量はかなり高いとは思うが…

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その後、双葉駅に向かい、3月にはなかった駅待合室へ行くと、訪れた人が書き込むことが出来るノートが置かれていた。かつて双葉に住んでた人のメッセージなどが溢れ、なんとも言えない複雑な思いを抱いた。「復興」への願いが書かれてはいるが、果たしてそれが成されるのはいつなのか、何を持って「復興」というのか…

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(向こうに倒壊しかけたJAの倉庫が見える。3月の立入規制緩和や常磐線全通の時はあらゆるメディアがこの駅前から中継したが、どこもあのJAの倉庫を映さなかった。)

Oさんの自宅周辺は、多くの建物が解体され、もはや震災前の姿は見る影もなかった。薬局の廃屋だけがまだ残っている。この廃屋は、今もまだ残っているという。持ち主の居所がわからないのか、解体に応じてないのか…頑なに応じない人もいると聞くが、それは当然のことだ。地震にも耐え、津波も来なかった場所に立つ自らの生業の土地を、人災によって失うなど、僕なら絶対許さない。

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(更地。)

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(解体中。)

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かつて「原子力明るい未来のエネルギー」と書かれた看板があった場所は、すぐそばの体育館も解体され、妙にスッキリしていた。手元の線量計は、0.83μSv/h…ここに赤子が訪れることも出来る…妙に静かな町なかの非日常感と、数字がリンクする。

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その後、双葉南小学校へ向かった。

<続く>

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