見出し画像

書評「朱の記憶 亀倉雄策伝」-いま日本で事業家の上を行くデザイナーが果たして何人いるだろうか-(馬場マコト)

まず、この作品を見て欲しい。

このポスターは、1964年に開催された東京オリンピックのポスターです。アスリートの躍動感、息遣いまで聞こえてきそうなこのポスターは世界的に大きな反響を呼び、戦争で大きなダメージを負った日本の復興を世界に対して大きくアピールすることに成功しました。

このポスターのアートディレクターを担当したのが、アートディレクター亀倉雄策。東京オリンピックのポスター以外にも、グッドデザインのロゴマーク、長年愛されている明治のチョコレートのパッケージ、NTTのロゴマークを作ったことでも知られる昭和を代表するアートディレクターです。亀倉雄策が手がけた作品は、亀倉が作った事は知らなくても、広く多くの人に知られています。

本書「朱の記憶 亀倉雄策伝」は、昭和を代表するアートディレクターだった亀倉雄策という人は、どのような生涯を歩んだのか、亀倉の仕事とともに振り返った1冊です。


いま日本で事業家の上を行くデザイナーが果たして何人いるだろうか。少なくとも事業家に、あるヒントを与え自ら協力出来る人がいるだろうか。本当のデザインと云うものは、ここから始まると云ってもよい。デザインは条件の連続であり、その条件を生かすのがデザインである。デザインはその条件を逆に利用するところに本質がある。もっとデザイナーに近寄り、デザイナーは事業そのものに近寄るべきだ。そして大衆をして、デザインとは新しい生活の美術であると悟らしめるべきである。」

この言葉は、亀倉が終戦直後に語った言葉です。この言葉から、亀倉がいかに先端を走っていたか、そして現代の日本でも亀倉のようなデザイナーは希少であり、デザイナーという職業に対する捉え方は、戦後から変わっていないのだということがよく分かります。

亀倉が自らのデザイナーとしてのスタンスを示しているエピソードとして印象に残ったのが、松屋のリブランディングに関するエピソードです。

亀倉がロゴデザインなどを手掛けた松屋は、1970年代の後半に競合が台頭し、経営が立ち行かなくなります。経営再建を行うべく、ライバルの伊勢丹から役員を招き入れ、リブランディングを亀倉以外のデザイナーに託します。託されたデザイナーは、折にふれて亀倉が目をかけていたデザイナーでした。

当然、松屋のデザインにかかわってきたメンバーは反発します。

「亀倉先生、あなたのデザインが否定されているのに、それでいいのですか」

そんな質問に対して、亀倉はこう答えたそうです。

「他の百貨店が平均三から四パーセントは成長しているときに、松屋はマイナス三パーセントだという。私のデザインでは経営が機能しないことは数字が語っている。私のデザインが否定されてよいのかと言われたが、いいも悪いもない。機能しないデザイナーは変えるべきだよ。」

日本の復興を支えたデザイナーたち


本書では僕が知らなかった亀倉雄策の事を知ることが出来ました。それは、リクルートとの関係です。

晩年の亀倉は、「デザインと経営の融合」をリクルートという新興企業に託します。リクルートの経営に対する関わりを強めていった結果、リクルート事件に巻き込まれることになります。

江副浩正という稀代の起業家との関わりながら、亀倉はどう感じたのか。それは本書を読んで頂くとともに、本書の続編とも言える「江副浩正」という本が、本書の著者から最近発売されました。本書を執筆しながら、著者が興味をいだいて書いたとしか思えません。

著者の馬場マコトさんは、「戦争と広告」「花森安治の青春」といった、戦前や戦後の日本の広告の歴史について、読み応えのある作品を書いてきた人です。どれも素晴らしい作品ばかりなのですが、馬場さんの著書に共通して描かれているのは、当時の「日本」という国をいかに外国に、国内の人に広めていくか。自分たちが日本をどう変えていくのか。変わっていく日本をどう伝えるのか。そんな事を考えながら、広告制作に取り組んでいた人たちの姿です。

戦争で多くの犠牲を出し、急速に復興を遂げたのは、事業家だけでなく、事業家の想いを伝える技量をもったデザイナー含めた制作者の力が大きかったのだなと、改めて実感します。

本書は、デザイナーやアートディレクターと呼ばれる方々にこそぜひ読んでもらいたいと思います。ぜひ多くの人に本書を手にとってもらえる事を願って。

「朱の記憶 亀倉雄策伝」

※本書はnishi19 breaking newsに掲載した記事の転載です。

この記事が参加している募集

コンテンツ会議

サポートと激励や感想メッセージありがとうございます! サポートで得た収入は、書籍の購入や他の人へのサポート、次回の旅の費用に使わせて頂きます!