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東京郊外在住会社員 日記・エッセイ・SS

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犬吠埼

私はアホだ。昔から注意力散漫なところがある。大事なものを忘れ、肝心なことを間違える。たとえば財布を家に忘れて、電車を乗り過ごし、鍵を失くす。昔勤めていた会社で、…

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2年前
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洗濯機

Kとは小学校に入学してすぐ友人となり、お互いの家を行き来するような仲になった。幼くして母親を病気で亡くし、父親が仕事で留守にしているKの戸建ての家は、秘密基地のよ…

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2年前
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20220410七沢温泉

何かがぽきん、と折れる音が、たしかに聞こえるときがある。たとえば、私にはどうしようもない関係の相手に、私にはどうしようもない要求を、強めの語調でぶつけられた時と…

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2年前
25

おでん

 おでんの汁が芯まで染み込んで、つやつやと光った大根が、箸で割り裂かれていく。断面からホクホクと湯気が上がるのを見て、生まれたてのような大根、と思った。  同じ…

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3年前
13

Mのこと

実家に帰るときは、できるだけ知り合いに会うことがないように、乗車人数の少ない車両を選ぶのが常だった。 知人と偶然に会って、嬉しいと思うことはまずない。誰と会うに…

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3年前
42

カブトムシ

部屋の前にカブトムシが落ちていた。 アパートの2階には5部屋ぶんの扉があるのだが、このうち4部屋の前に1匹ずつ。すべて雌のカブトムシだった。 虫が嫌いな私は、帰宅し…

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3年前
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タイ料理屋に降る雨

細くて長い雨が降っていた。 私は雨に降られることを承知で傘を持参しなかった。 濡れた傘を持って電車に乗るのが苦手だからだ。他人に触れないように気をつけたり、自分…

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3年前
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遺影さがし

何もしたくないなぁとボンヤリしているところに老人ホームからの電話。「写真がご用意できました」。16時を過ぎて初めて化粧をして、家を出る。 スマートフォンを頼りに老…

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3年前
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3月の土曜日

「起きた?あのさ、ばあちゃん死んじゃった。だから、今日は会えませーん!ごめん!」 布団の中で電話をとった私は驚きもせず、寝ぼけた声のまま「気をつけてね、ありがと…

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3年前
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犬吠埼

犬吠埼

私はアホだ。昔から注意力散漫なところがある。大事なものを忘れ、肝心なことを間違える。たとえば財布を家に忘れて、電車を乗り過ごし、鍵を失くす。昔勤めていた会社で、メールのCCだけ完璧にしてTOの部分を入力し忘れたことがあった。怒られるというより呆れられた。

真面目な顔をして、適当なところでウンウンと相槌を打つから、よく話を聞いていると周りから思われてしまう。子どもの時分はそれだけで教師から褒められ

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洗濯機

洗濯機

Kとは小学校に入学してすぐ友人となり、お互いの家を行き来するような仲になった。幼くして母親を病気で亡くし、父親が仕事で留守にしているKの戸建ての家は、秘密基地のような場所だった。
中学に上がる前、父親の再婚を機に、Kは生まれ育った街を離れた。

今朝、私はKの家で洗濯機を回していた。私がぜひ欲しいと思っていた最新型のドラム式洗濯機だった。この洗濯機を運転させたら、どのような回転をするのか知りたかっ

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20220410七沢温泉

20220410七沢温泉

何かがぽきん、と折れる音が、たしかに聞こえるときがある。たとえば、私にはどうしようもない関係の相手に、私にはどうしようもない要求を、強めの語調でぶつけられた時とか。
金曜の午後のたった4時間くらい、私がいないことで何も変わりはしないと思って、たっぷり残っている有休を消化することにした。

白髪が目立ってきたのが、気になって仕方なかった。年齢のせいもあるが、職場でストレスを感じると増えるものだと気づ

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おでん

おでん

 おでんの汁が芯まで染み込んで、つやつやと光った大根が、箸で割り裂かれていく。断面からホクホクと湯気が上がるのを見て、生まれたてのような大根、と思った。

 同じように、たまごとはんぺん。昆布は上手に割れないから、全部そのままあげるよと、片割れの詰め合わせとなった小鉢を手渡された。

 甲斐甲斐しいNの仕草に、母親のようなぬくもりを感じて、「優しい」と言ったら、「俺は優しくないよ」と言ってビールを

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Mのこと

Mのこと

実家に帰るときは、できるだけ知り合いに会うことがないように、乗車人数の少ない車両を選ぶのが常だった。

知人と偶然に会って、嬉しいと思うことはまずない。誰と会うにも気疲れをしやすい性質のためだ。他人が嫌いというわけではない。人と会うには、できるだけ予定に組み込んでおいて、心の準備をしなければならない。

その日もまた、いつも決めている通り、ホームの真ん中あたりで電車を待っていた。平日の午後。お年寄

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カブトムシ

カブトムシ

部屋の前にカブトムシが落ちていた。
アパートの2階には5部屋ぶんの扉があるのだが、このうち4部屋の前に1匹ずつ。すべて雌のカブトムシだった。

虫が嫌いな私は、帰宅してすぐ、いやだったよお、という気持ちを込めてソファに横たわった恋人に報告した。彼は私の「いや」の気持ちなど知らんぷりで、次の瞬間には飛び起きて、玄関に向かっていた。

「おお、本当だ」

ドアを開けてすぐ、明かりの下でぽつんと居座って

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タイ料理屋に降る雨

タイ料理屋に降る雨

細くて長い雨が降っていた。

私は雨に降られることを承知で傘を持参しなかった。
濡れた傘を持って電車に乗るのが苦手だからだ。他人に触れないように気をつけたり、自分の体に寄せて持って、自分の服が濡れたときの不快感といったらない。

しかし、生来の優柔不断のおかげで、傘を持たない私は結局雨に侵食されていた。
昼食のための店が決まらない。新宿三丁目の周辺を、ぐるぐると繰り返し歩きまわりながら、カレーでも

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遺影さがし

遺影さがし

何もしたくないなぁとボンヤリしているところに老人ホームからの電話。「写真がご用意できました」。16時を過ぎて初めて化粧をして、家を出る。

スマートフォンを頼りに老人ホームまでの道のりを自転車でフラフラ。バス通りはソメイヨシノが立ち並んでいて、散歩する人たちが足を止めてはその花を見上げている。風は少し冷たい。

1週間前にも同じ道を走った。その時は病院に向かっていたのだけど、浮かれるほどあたたかな

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3月の土曜日

3月の土曜日

「起きた?あのさ、ばあちゃん死んじゃった。だから、今日は会えませーん!ごめん!」

布団の中で電話をとった私は驚きもせず、寝ぼけた声のまま「気をつけてね、ありがとう」と言った。電話を切ってから、何に対してありがとう、なのか、ちゃんと言いそこねたなあ、と思った。連絡をくれたこと、ありがとう。

年末、彼のお祖母さんが肺炎で入院した、と聞いたとき、心の中で私は「もうそろそろだろうな」と思った。痴呆の進

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