見出し画像

少年犯罪は時代を追うごとに過激化しているか

未成年が重罪事件を起こす度、ヤフコメに「今の子は…」と書く人が現れる。

いつの時代も「今の子は…」と言われたかもしれないが、インターネットの発展で可視化できる部分が増えただけ、今の子は昔の子より言われる機会が多いかもしれない。


実際、昭和や明治の時代にも未成年で重罪事件を起こす子はいた。戦争の経験も相まって、精神的に不安定な部分もあったのだろう。

未成年の重罪事件は今も昔にも存在した。決して、最近だけに起こっていることではない。

今日はそんな話をつらつらと。


暴力を用いずに暴力を悪だと教える難しさ


今の時代を生きる子たちが“加減を知らない“のは私も一理あると思う。

“怒鳴ることも虐待“と言われる時代で、一切の加減を知らない子供に“度“を教えるのは難しい。

ヤンキーや暴走族がそこかしこにいた頃は何十、何百という仲間内で学ぶことができただろうし、その当時は教師が生徒に手を挙げることも許容されていた。

“今の子には欲がない“なんて言われる時代に生きていれば、溢れるほどの感情を持て余すこともないのかもしれない。


だからといって、子供の思春期や青春がなくなるわけではないだろう。

欲もなくマイペースに生きているように見えても、多くの子供は様々な感情を内に秘めているはずだ。


公園でボール遊びもできない時代に、子供はどこで感情を吐き出したらいいのだろうか。

有り余る気持ちや反抗心はどこの誰に向ければ解消されるのか。

そのために今よりもずっと自由が多かった時代に生きた“大人たち“ができることは、ヤフコメに「今の子は…」と批判コメントを書くことなのか。


今の時代に生きる子供にスポットを当てるなら、同じだけ、今の時代に生きる大人にもスポットを向けるべきではないか。

批判したり叩くような真似をすれば、子供は更に狭くて居心地の悪い場所へ追いやられる。

これから社会に出て生きる子供たちの話は常に建設的でありたい。


だからヤフコメに「今の子は…」と批判コメントを書いている人に問いたい。

暴力を用いずに、暴力を悪だと教える方法を示してくれ。


私は子育てに第三者の介入を歓迎する



我が子というのは想像以上に可愛い。

親バカになるのも理解できるし、例えなにがあっても「うちの子に限って…」という思考になるのも分かる。

だからこそ、近所の怖いお兄さんや学校の怖い先生が必要だと私は思う。


どの問題でもそうかもしれないが、主観でしか物事を見ていないのと客観的に捉えられるのとでは大きく変わってくる。

“我が子“というフィルターを通せば考えも偏るもので、“叱る““教える“ことに甘さが出るのも当然だろう。


「我が子が友達に殴られた」

例えばこれが学校で起きたとして、親は教師からの電話で知るとする。概要しか聞いていないとすれば、殴られた方の親は我が子は被害者だと認識するだろう。

しかし、現場にいた友達や教師に聞くとどうも我が子が原因を作ったように思える。としたら、殴られて更に説教を受けている我が子に“可哀想“という感情はないはずだ。

むしろ叱ってくれる教師に有り難みを感じるだろうし、その後、我が子と友達が仲良くやってくれたらその友達にも感謝の気持ちが生まれるだろう。


社会に出て仕事をしても同じだけれど、“叱ってくれる人がいる“というのはすごく貴重だ。

期待しているからこそ、そうなってほしくないという希望があるからこそ、熱量と時間をかけて軌道修正の手を差し伸べてくれている。

怒ることと叱ることの違いが分かっていない大人は論外だが、自分の子を思って指導してくれる人というのは大事にした方がいい。


親だけで子供を養育することはできても、“社会に出て生きる人としての躾“は社会全体でする必要がある。

甘えられる場所、心安らげる場所、なにがあっても味方だと思える家族や両親の存在は人が生きていく上でとても大切だ。

だからこそ、社会の中である程度揉まれる経験も必要だと思うのだ。


許容できる社会と子離れできる親が時代を変える


日本はシャレにならないほどの超少子高齢化時代に突入している。

神輿が重すぎて骨折者多数の状況で今後も老人は増え続け、子供は減っていく。

納税者がいなければあぐらをかいて偉そうにもできないくせに、政治家はこれらのことについて真剣に考えていないのが日本の終わりを告げている。


老人の数が大多数を占めれば、老人優位な社会になることは当然だろう。

逆に子供の方が多ければ、子供優位な社会になるのではないか。

明治や昭和の時代は子供優位だっただろうし、社会も“子供“という存在に寛容だったはずだ。


「今の子は…」と言うのなら、自分の時代とよく比べてみたらいい。

数百人の生徒を抱えるマンモス校と呼ばれる学校がそこら中にあった時代と、少子化で一クラス二十人前後の時代では子供を受け入れる“社会“も違って当たり前ではないか。


また核家族化により、“子供の面倒を見るのは親だけ“という家庭環境にも問題はある。自分の子を他人に託す経験が乏しい親は、我が子に対する他人の接し方に過敏になる。

子供を守っているつもりで子供を傷つけることになるし、自立を親が阻むことにもなりかねない。


“可愛い子には旅をさせよ“という諺や鳥が子へ飛び方を教えるためにわざと突き落とすのと同じで、親の手から離れて初めて学べることもある。

経験には痛みや悲しみも伴うし、生きていれば思い通りにならないことなどごまんとある。

幼い頃は親の守りも必要だけれど、親もいずれは死ぬ。いつまでも子供を守れるわけではない。


子供だけ、親だけ、社会だけ、が変わっても意味はない。

全体が自分の問題だと捉え、改善に向けて建設的に生きていく必要がある。

高いところから下を見ている老人政治家にはできなくても、今の親世代が20年後の未来を変えることはできるのではないかと私は思う。


社会から締め出された子供がSNSに行き着く


今は学校のクラス毎にネット掲示板があり、そこでクラス全体からいじめを受けることもある。

単純な言葉では検索しても出てこないように、ダークウェブまで落として掲示板を運営する生徒もいるほどだ。

大人よりずっと吸収率のいいスポンジを持っている子供に太刀打ちできるはずがない。


今後も子供のSNSについては様々な議論がされるだろうし、規制もより細かくうるさくなっていくだろう。

公園と同じだ。

ボール遊びは危険だから禁止。声を出して遊ぶと近所の迷惑だから禁止。自転車の乗り入れも禁止。集団で集まるのも禁止。

そうやってSNSやインターネットからも子供を締め出して、大人が大多数を占める日本は自ら衰退の一途を辿っているのだ。


それが我ら日本人の望みなら構わないが、自分の生まれ育った場所がなくなるのを望んでいる人などいるだろうか。

「今の子は…」というのなら、自分自身も今の時代に合わせて柔軟に生きなければその言葉はただの悪口にしかならない。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?