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こんな日だからこそ

9月1日

この記事が公開されるのは、9月2日。そう昨日と言えば、一年で一番、子どもの自殺が多い日です。何かこのことが有名になりすぎることに不安感を覚えるのは私だけでしょうか。

言葉は思考をつくります。子どもが死に関連する言葉を見にすると死を連想しやすくなり、自殺予防を啓発しているはずのニュースが自殺を助長しているように思うのです。

これが私だけの感覚というのを信じるのみです。

そしてそのことと関連するのが、やはり不登校です。潜在的不登校といって、学校には行っているけどできれば登校したくないというわかりにくい場合もあります。目に見える不登校の数が、年々増えていることはみなさんもご存じのことと思います。

学校というのは子どもにとっては非常に大きな要素です。何せ1日の多くの時間を学校で過ごせます。大人になってみると別に学校なんて・・・とお思いかも知れませんが、子どもからするととんでもない。

大人の世界で言うと、学校は会社と置き換えられることが多いと思います。会社に依存していない人からすれば、会社なんて・・・って思えますが、会社が人生の大きな要素と思っている人はまだ多いのではないでしょうか。

子どもにとっての学校は、大人で言うと会社。この思考でいる親御さんからすると、学校に通い授業を受けることが「ちゃんとしている子」であって、学校に通えなかったり、学校に通っていても授業を受けてないと、「ちゃんとしている子」とはならないと思ってしまうのです。だって、会社に行っていなかったり、会社に行ってもずっとたばこを吸っている人は仕事をしていると言われないからです。

そう考える親御さんの元で暮らすと、学校に通えない=ちゃんとしていない→生きる価値がないと飛躍して考えてしまう子が出てきてしまうのも分からなくもないです。

こうした思考を不登校の子だけでなく、潜在的不登校の子も抱いている可能性があります。今不登校の子は「行かない!」とちゃんと言えた(態度に示せた)子で、いったんそう態度を示せば周りから理解されやすく支援も受けやすいです。

ところが、潜在的不登校の子は態度に見えません。だから文部科学省は「不登校はだれでもなりうる」と言うのです。その変化は「ある日突然不登校に」と周りからは見えますが、本人の中ではずっとくすぶっていることなのです。そう考えると、どの親御さんも「関係ない」と思わず、不登校問題を考えるのは大切かなと思います。

マイナスではなく、プラスなんだよ

最近は「学校なんて別に行かなくてもいい」「学校は枠に当てはめるだけの害だ」と言う意見を言う人も出てくるようになりました。積極的不登校という言葉もあるくらいです。

私は不登校児童を担任したこともあります。そして、まさに今は中学校で不登校生徒の支援をしています。

その経験から思うのは、不登校(学校に行かない)という選択をするとかなり大変だということです。子どもももちろんですが、親も大変です。子どもが小さいうちに不登校になると、一人で家にいさせるわけにいかず、親御さんは働きに出かけられません。

大きくなって一人で過ごせたとしても、学校との連携、フリースクールの検討、食事の用意、等。そして何より子どもの自傷行為の防止という役目があります。

共働きもできなくなるかもしれません。金銭的な問題にも発展しかねません。

また、その問題を一人で抱えると夫婦関係にも影響がでかねません。よくマンガにありそうな、「不登校になったのはおまえの教育のせいだ!」というお父さんはイメージしやすいかもしれません。口には出さないけど家でこもりきりになり、うつになっていくお母さんもイメージしやすいかもしれません。

いずれにしても親として不登校に向き合う大変さ。並大抵のことではないです。この認識を改めてしっかり持っておいた方がいいのではと思うのです。学校に行かなくて良いという決断は慎重に。

とはいえ、ほとんどの人は不登校になりたくてなる訳ではないと思います。学校に行くのがどうしても嫌だなという思いから不登校という選択をするのだと思います。選択という表現よりかは選ばざるをえないという感じでしょう。

私は不登校の大変だから嫌でも学校に登校しましょうと言いたいわけではありません。苦しいときは苦しいし、普段できることができないこともあるでしょう。

ただ、学校は行かなきゃ行けないから行くものではなく、行くことで価値あることを得られるから行くという認識を大人がもっておくのは大切であると言いたいのです。

この二つは似ているようで意外と違うのです。

勉強はやらなきゃいけないからやるではなく、やった方がいいからやる。挨拶はしなきゃいけないからやるではなく、した方がいいからやる。と同じです。

学校って実は勉強なんかしなくても過ごすだけでいろいろ学べるのです。成長できるのです。

マイナスだけど行かなきゃではなく、プラスだから行こうよと言いたいのです。

学校の役割とは

人は自分がもつ価値観と似たものに好意をもちます。SNSやインターネットの検索機能の発達により、自分が興味のあることに出会いやすくなりますし、価値観が似ている人と出会いやすくなりました。

一方、コロナの影響も手伝って、人と関わらなくても生活できる仕組みが整ってしまいました。

そうなるとどうなるか。自分と似た人としか関わらなくなり、自分はこういう価値観なんだ、そしてみんなも同じ価値観なんだ。という考えが強くなります。エコーチェンバー現象というらしいです。

その世界に長くいるとどうなるか。自分と似た人としか関わらず、会う人はみな似た人である世界です。

似ていない人、違う価値観をもつ人を受け入れにくくなります。認めることはおろか、関わらないようにするだろうし、なんなら排除したくなるでしょう。

自分の意志では価値観が似ている人としか関わらない。だからこそ、自分と価値観が違う人と関わる機会がとても大切なのです。

そう。住んでいる地域が同じと言うだけで、一緒に勉強することになる。こういう言わば強制的に決められる制度でないと、人は自分と価値観が違う人と関わらないのです。

学校は勉強する場所です。それは今も昔も変わらないですし、全国の先生方は子どもに勉強を教えるため、日々研究と修養を重ねています。

しかし、それよりも様々な人と関わる機会という価値の方が大きくなっているように思えます。様々な人と6時間以上共に過ごすことにより、実感をもっていろいろな人がいるのだなぁと思えるのです。

勉強は大切。それに間違いはありません。親御さんとして勉強はできてほしいし、いい成績をとってもらいたい。

そうではあるのですが、勉強の前段階として、登校して他の人と過ごすということが現代は大きな学校の意味になっているのではないでしょうか。兄弟の数は減り、核家族や共働きの家庭が増え、遊べる公園が少なくなり、一人で遊べる動画、ゲームが充実しました。

環境によりどんどん関わる人の数は減ってきますし、いろいろな人と関わらなくてもなんとなく過ごせるようになりました。

一方で、学校に行かずともその気になれば勉強はできるようになりました。ドリルや問題集、参考書はもちろんのこと。動画コンテンツ、リモート環境も充実し、ソフトも増えました。私の勤務する学校では、希望があれば、無料でソフトが配布され、家で学習ソフトに取り組むことで出席扱いになります。

となれば、学校の役割、雑に言うと学校に通うメリットというのは、勉強よりも人との関わりではないかと思うのです。だって苦手な人との付き合いなんて、強制でもされなければでれもしたくないじゃないですか笑

人との関わりなんて知識を得れば上手くできるなんてものではありません。数を重ねて、何度もトラブルを経る上で、少しずつ分かってくるのです。

学校に通えば、人との関わりを経験できる。それでまずOK.その上で、勉強もできれば御の字。目標をもち努力すれば仰天。学校が楽しいなんて天変地異級ですよ。

こんな日だから。こんな時代だから。あえて言わせてください。学校って行くだけで成長できる。学校ってそんなに悪くはないと思います。

まれに「あれ?」っていう先生もいるかもしれません。でもそれこそ多様性の時代。どう対応するのがいいのかを考えるきっかけになります。

みなさまの思考に一石を投じられたら幸いです。

最後までお読みいただきありがとうございました。参考になれば幸いです。素敵な一日をお過ごしください。

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