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「戦争に顔はない」

abstract


いま人々の中で「戦争の悲惨なイメージ」が急速に変貌しつつある。これは戦争の「悲惨さ」が減衰したというわけではない。ただ「悲惨さ」の持つ意味が変わったのだ。

ウクライナで勃発した戦争が「憲法9条のおかげで日本は平和だった」とか「憲法9条を護持している日本を侵略したら、国際社会が黙ってないぞ(だから日本は侵略されないのだ!)」とかオカルティックな言説を一気に「オワコン」にしたことは、記憶に新しいだろう。

以下は、ありし日の人々の勇姿である。

憲法9条は「最強の盾」と言い切った我らが終身総統。イージス艦などは税金の無駄使いだ。わかったか愚民ども!
「九条は神様のプレゼント」――憲法9条で日本に首輪をつけてくれた飼い主のアメリカ様は神である!!わかったか愚民ども!
「好き放題やっている安倍総理へ、僕らはこの怒りを絶対に燃やし続けます」――“アジアの玄関口”福岡から来た学生がもの申す! シールズは永遠である


「日本は九条の国だから侵略されないのだ」とは、かつての頑迷な国家主義者が「日本は神の国だから神風が夷狄を打ち払う」といっていた代償行為のような一種のエスノセントリズム の発露なことは忘れてはならないだろう。
驚くべきことに、こうした「日本が進んで武器を持たず、無抵抗をつらぬけば、その道徳的優位に相手はひれ伏し攻めてこなくなるぞ。国際社会が尊敬して助けてくれるぞ」みたいな言説は、どう考えても異常者の誇大妄想、ないしカルトそのものなのだが、ほんの数年前まで「国民」に膾炙していた。すなわち、これは「戦後民主主義」的な「正しさ」の「空気」ですらあったからだ。

こうした「空気」というのは変えようとしてもなかなか変わらない。だが、ウクライナの戦争により、メディアを中心に「命をかけて愛する人を家族を故郷を国を守る人々の物語」が伝えられると、一気に「空気」が変わってしまった。


今ではなにかあれば、「シールズのみなさん!出番ですよ!イスラエルとガザ地区にいって遊んで酒を飲み交わし抑止力になってください!」などと、わざわざ親切にも彼らに出番を教えてあげる心優しい慈愛の声も鳴り響いているほどだ(世界は優しさに満ちている)。

彼らは戦後いつまでたっても、「戦争の悲惨さを知れ!」と戦争を「恐ろしいもの」として喧伝していた。だが、ウクライナの「戦争」以降、その「恐ろしさ」を伝えるのをやめる現象がおきている。ひたすら70年以上前の「戦争の記憶を語り継げ」という伝道師エヴァンジェリストでありながら、リアルでライブな戦争から目をそらし、逃げ出そうとしているのが「彼ら」となっている。

一方で特筆すべきは、ハマスによるイスラエルへの「大規模越境攻撃」がはじまると初期のSNSでは「第三次世界大戦はもう始まっています」とか「後から歴史を振り返れば、既にもう第三次世界大戦の中にいるのだ」などという不穏な言葉がまろびでた。

だが、もちろん「第三次世界大戦」などとは、明らかに扇情的な言い方である。
ではなぜここで戦争のインパクトが拡大したのか?



今、ウクライナの戦争とは全然ちがった意味で、私たちの「戦争」の意味が変わっている。この衝撃が極東の小島に伝わり、一つの「時代の終わり」がはじまりつつある。二度と引き返せない。

私たちにとって「戦争」とはどういう意味をもつようになったのか。書かねばならないが――

そう、あれは「ノマドの戦争」であったのだ。

どういうことかといえば、動力付きのパラグライダーで次々と越境し、さらにイスラエルのつくった「壁」を破壊し、

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