"非"言語化する(ミニ読書レポ)

一週間前、わたしはめちゃくちゃ荒れていた。精神的にも疲れがあって、何より月のあれもあったから、ピリピリイライラしていた。

荒れている時は決まって、わたしの思っていることを書く。
書くことで、深すぎて認知できなかった気持ちまで知ることができる。
わたしもそう思うし、書くことで自分の気持ちを探していた。


しかし、書くことで、「理解はできるけど納得できない」状態になってしまう時もある。
なんか言いたいことが違って見えてしまう、というような。

わたしはよくGoogleに検索にかけて、悩みの正体は何なのか探るけど、自分の心が思っていることと言葉にしていることが微妙に違うから、「そっちではないんだけどな〜」状態になる。


ふとした時、なんの前触れもなく、わたしは一冊の本を手に取って、ぱらっとめくってみた。ドストエフスキーの「地下室の手記」。
気まぐれにぱっとめくってみたページに、こんなことが書いてあった。

"しかし、ほんとうに探しあてること、発見することは、断言するが、何かこわがっている様子だ。"

「地下室の手記」(p.63)
フョードル・ドストエフスキー 著 江川卓 訳
新潮文庫(1970年)より


わたしはめちゃくちゃ、めちゃくちゃびっくりした。何気なく開いた本に、わたしが悩んでいたことをびしっと言い当てられるなんて…

この作品の主人公のように、言語化したりできない、それこそ不条理な心の叫びだってあるはず。わたしは悩む時に無意識に理由だとか、因果関係とか、理由をつけてしまっていたのかも…と考える。


ドストエフスキーが言いたかったことと違ったらそれはもうごめんなさい。としか言えないけど、
言語化することで失われてしまう思いもある時は、深く考えずに身を任せていくこともいいものだと思う。この主人公はむしろこんな些細な感情も全て言語化できててすごいな、と思うけど…🤣

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