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«1995» (5)

外国語学部の一次試験の合格発表は、同じく上智大学を受験しに来ていた級友たちと一緒に見に行った。

国際関係法学科の試験終了が16時前、発表が17時だったので、時間を持て余し、お腹が空いているわけでもないのに食堂で五目焼きそばを食べた。妙に細かいことを記憶しているのは、自分でも不思議だ。

時間が来て掲示板を見に行くと、果たして僕の受験番号があった。

「わ!やった!」
と無意識に大声を出したのを覚えている。なにせ、日本史が難しかったから、受かるとは思っていなかったのだ。
一緒にいた同期の数名は、同じ外国語学部を志望して落ちてしまったから、さぞ落胆していただろうと思うけれど、当時の僕は、というか今もそうかもしれないが、周囲の空気を読む慎ましさはなかった。

二次試験までの間は記憶が曖昧だけれど、この間に慶応大学の法学部も受けたと思う。
フランス語も日本史もどんな問題だったかは覚えていないけれど、この学部は国語の代わりに「論述力」と称して、ひとつのテーマに沿った論文を書かねばならなかった。テーマは環境問題だった。高校生が自ら論理立てをして採点者を納得させる論文を仕立てるというのは、マークシートの上智大学とは全く対照的だったので記憶に残っているのだろう。

ところで、僕の親兄弟が全員通っていた学習院大学にも出願はしていたのだが、上智大学の二次試験と重なったので、受験は叶わなくなった。まだ在学していた兄はいささかガッカリした様子だったが、僕にしてみれば、学習院初等科を受験して落ちて、いわば滑り止めで受けていた今の学校に収まったので、今更回り道をして学習院大学でもあるまいと思っていたし、僕の人生最初の挫折は、家族と同じ学校に入れなかったことだったのだ、と大学受験の歳になって初めて気づかされもしたものだった。

そして、その時点では挫折だったとしても、それは断じて喪失ではなく、新たな獲得の始まりだったということも。

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