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誰のせいでもないことが一番やっかいなの-2-



昨日、インスタに松田聖子さんの赤いスイートピーの弾き語りを投稿した。

その歌詞の中に、

タバコのにおいのシャツにそっと寄り添うから

とあって、瞬間的に
"タバコのにおいのするシャツ嫌だな"
"タバコのにおい大嫌いなんだよな"
と思ってしまったのと同時に、なんだかちょっぴり懐かしい記憶も蘇った。




わたしの父は、ヘビースモーカーだった。

ついでに言うと、母も昔は喫煙者。

だから、家の中はタバコのにおいでいっぱいで、わたしはそのにおいが大嫌いだった。
父も母もタバコを吸うから、家の壁は黄ばんでいたし、きっとわたしの肺は副流煙で汚くなってるんだろうな、と子供ながらに自分の体を心配していた。
いかにして、このタバコのにおいから逃げるか、遠ざかるか、を考えながら生活していたかもしれない。


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唐突だけれど、
父は、わたしを特に可愛がってくれていた。ように思う。
私には二つ上の姉がいるけれど、
姉よりもわたしを特に。
なんとなく断言できるのは、明らかにわたしの名前を甘い声で呼ぶことが多かったし、姉妹喧嘩のときにわたしの肩を持つことがほとんどだったし、わたしに対してとても優しかったような気がする。
それは、ただ"妹"という姉よりも小さい存在で可愛く思えたのかもしれないし、何故だかはわからないけれど。


いつもタバコ臭い父に近づくとウッとなって、"お父さん臭い〜"と言いながらも、わたしを甘やかしてくれる父にたくさん甘えていたな。

タバコのにおいは大嫌いだったけど、わたしは父が大好きだった。


前に書いたように、統合失調症の父にはもう20年近く会っていない。



そんな父、わたしの記憶の中にある父を、少しずつ書き出してみようとおもう。


良いことも悪いことも。


(思い出しながらなので、順序が前後したり、乱文になりがちだけど、温かい目で読んでくれたらうれしいです)



父が病気を発症したのは、わたしが保育園に通っていたころ、と母から聞いた。

発症してから、父は仕事を辞めざるを得なくて、基本的には家にいることが多かった。
代わりに、母は、父のお母さん(祖母)が保険外交員をしていたこともあり勧められて、同じように保険外交員の仕事をしだした。
母は、朝から晩まで働きに出てて、土日も働くことも多かった。
だからといって、父が家のことをすることはなかった。

うちは父が働くことができなかったのもあって、家計は苦しかったのか、"うちは貧乏だから"が合言葉みたいになっていた。
子供のころお友達が持っているものが欲しくて、おねだりしても、
"よそはよそ。うちは貧乏だから買えないのよ。"とよく言われていた。


最初は、一階建の何棟か連なる木造の古い市営団地に住んでいた。
団地は団地で、同い年の子が同じ団地に住んでいたりして、子供ながらには楽しかった。

団地から少し歩けば、わたしが通っている保育園があった。
その保育園の前を流れる、川幅が1.5メートルくらいの小さい川があるのだけれど、
父は、よく私に、
"◯◯ちゃん(私の名前)は赤ちゃんの時にこの川をどんぶらこ〜どんぶらこ〜と流れてきて、拾ったんだよー"と言っていた。
そう聞かされていた。
幼心に"えーーそうなのー?!"と最初は本気にしていたけど、すぐ桃太郎をモチーフにした冗談だと気づいたけれど。
その話を聞くのは嫌いじゃなかった。
むしろ好きだった。そういう冗談は楽しかった。

母に聞いた話だと、父は基本的にはとても優しい人で、冗談もよくいうタイプ。
でも少し気難しい性格。と言っていた。


わたしが小学生に上がる少し前くらいに、団地から一軒家に引っ越した。
幸いなことに、母方の祖母は土地持ちだったので、土地代はかからず、その当時でも最安値、たぶん二百万くらいで家を建てれた、みたい。(すごい)

この一軒家での暮らしは六年ほどで終わってしまうのだけれど、それはまた今度の話にしよう。


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父は基本的には日中もずっと家の中にいた。

家の中で何をしていたかというと、わたしにはよくわからなかったけれど、何か難しい論文を書いていたみたい。それをどこかに送ったりしていた。そして、テレビの政治の討論番組が好きでよく見てはテレビ局にクレームの電話をしたり?していた記憶。今で言うクレーマーなんじゃないかとおもう。
一応父は、県内の一番頭の良い大学を出てはいたので、頭はそこそこによかったのかもしれない。
でも、お風呂あがりにはパンツも履かず、素っ裸でリビングをうろうろするような人で、グラビアの写真集を買い集めていたり、エロビデオをそんなに隠さず積み重ねているような、
難しいような分かりやすいような、そんな人だった。



そんな父は、いつだか貧乏な我が家の家計の足しにしようとしたのか、何回か家庭教師のアルバイトをしているみたいだったけれど、すぐクビになっていた。
たぶん気難しい性格と病気の症状、あと、少し怖い見た目がネックになって、あまり相手方に受け入れられなかったみたいだった。


そして、たぶん私が小学生の頃の半分くらいは、入院していたのだとおもう。

記憶が曖昧だ。



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先にも書いたけれど、父の見た目は、少し怖い。太めの黒ぶち眼鏡をかけていて、仏頂面だったので、とても怖く見えた。怒っていなくても怒っている顔。堅物!と言う感じ。

でも、優しいときの父は、いつも目尻を下げてニヤニヤするような、きっと側から見るとちょっと気持ち悪いくらい惚気顔だった。
写真にうつる父は、無理して笑うこともしなかったので、仏頂面ばかりだったけれど、父のニヤニヤした優しい顔はまだ覚えている。

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父は、年一回か、二年に一回くらいのペースで家族旅行に連れて行ってくれた。
車で行ける範囲で、かなり安めの宿限定だったけれど、連れて行ってくれた。

でも、気難しい性格と、病気の症状もあって、車を運転する父は、すこし厄介者だった。
なにかのきっかけで、ぷつんと切れる、もしくは、導火線に火がついてしまう。(同じ)
ふとした会話の途中で、それは突然いつも始まる。
旅行の道中の半分くらいは、母に対して文句を言う、その父の怒声を聞きながら、と言うのが常。
後部座席で私たち子供はそれをどうおさめることもできず、ひたすら我慢大会したり、時には泣いてしまうこともあった。
流れていくはじめてみる景色を、ただぼーっと眺めることでしか、気を紛らわすことはできなかったかもしれない。

100%楽しい旅行は一回もなかったけれど、それでも、父が家族を楽しませようと行き先を考えてくれていたことには間違いがなく、見たことがないいろんな景色を見せてくれたり、旅館で美味しい料理を食べさせてくれたり、家族旅行に連れて行ってくれたことには感謝している。
(正確に言えば、働いていたのは、母だったので、連れて行ってくれたのは、母なのかもしれないけど)





また、今度、父の症状もあわせて、わたしの中の父の思い出を書けたらなとおもう。
今日はここまで。




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