ビートたけしで読書感想文、からの教育論
40年前、小学一年の夏休みの宿題で提出した読書感想文。どういうことか(母親の検閲を通ったから、なんなら彼女が書いたから)、県でそこそこの賞をもらい、全校生徒の前で読んで披露させられたのが、成功体験の最初の記憶。
読んだ本は「ハレー彗星のひみつ」だった。大人が喜ぶ文章とは、こんな風に書けば良いのか、と思った記憶。賢くはないが嫌な奴である。
以来、文才というのは周囲の期待を裏切り、全く成長することなく、全盛期は母親が書いた読書感想文という、ドーピングされた小学一年で終わった。でも、バカだから自分で勝手に「国語は得意だ」と信じていた。
で、30年前の高校一年の夏、ビートたけしの「俺の毒ガス半世紀」で読書感想文を提出した(同級生の、提出しなかったので、居残りで書かされていたという目撃情報有り)。なんの疑問も持たず。国語教師の担任には死ぬほど馬鹿にされたが、自分的に心底「面白かった本」だったので、平気だった。今、思えば俺は「天然」だったのか。つまらぬ歳の重ね方をした、勿体無いことをした、と少々悔やまれる。
しかし、バカにはバカの上には上がいて、「日本の旅」という読書感想文を提出したKがいた。存在しない本をでっち上げて。「その発想は無かった…」敗北感があった。Kは今、公務員として地域のために働いている。
そんな罪作りな宿題、読書感想文。ネットで探すと、フォーマットまである。もう、意味がわからない。素敵すぎる。このフォーマットを作られた先生は九州の教育関係者には結構有名な方で、私も講演に参加したり、本を読んだりしてる。
http://www.goshisato1973.info/entry/2018/07/20/151653
読書感想文の呪縛は日本の将来まで影響しているというのは言い過ぎか?
だが、大学で問題が露呈する。大学で一番重要視されるのは「論文」である。論文を書くためには沢山の本や資料や論文を読み込み、レポートにまとめる作業が基本となる。そこに書かれていることを正確に読み込み、論点を整理し、他の論点との比較や違いを探す作業である。
だが、レポート出せ、というとまさかの読書感想文だった、というのがある。だって仕方がない。レポートを書く作業をあまりにしていないのだもの。「私はなぜこの[マーケティングの基礎]を読んだかというと」で、はじまり、「だから私はマーケティングに興味を持ちました」で終わる。そんなバカな…である。
これはかなり厳しい話だ。そりゃ、論文も書けなくなるだろうよ。
小学生はまだいい。その本がどんなに面白かったかを感性と文才で書いてくれるから。けれど中学くらいから読書感想文の「宿題」はやめてあげないか。
賢い奴や本好きな生徒は勝手に読むからいいのだけれど、そうじゃない、圧倒的多数の生徒にとって、この宿題が彼らから本を読む楽しさや喜びを、失わせてしまう原因の一つだと実感する。そして教育は衰退する。
読書感想文の賞を取った作品を読んだことある?まあ、立派。本当に立派。素晴らしい。非の打ち所がない。彼ら彼女らは本当にそう思ってるのだろう。俺には書けない。彼らをクサすのではない。他人の「感想」に評価を与える時の基準はナンダ?
少なくとも、ビートたけしの本で感想文を提出した生徒を笑うのではなく、「お前、すげーな、この本貸してくれよ」とでも言われたら当時の彼はもっと面白いことしようとしただろうな、と想像する。
大人が喜ぶだけの読書感想文はもうやめよう。
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