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読んでない本の書評45「幽霊たち」

93グラム。世代が世代なのでニューヨークのゴーストと言えばろくろを回すもんだと思っている。

 読んでいると、少し羨ましくもなる。ある日突然ドアを開けて入ってきた謎の依頼者に、一人の男を監視する仕事を頼まれてみたい。ターゲットの真向いのアパートも手配済みなので、ただそこに移り住んで窓越しに見ていればいいだけだ。
 ただし監視対象は机に向かって書き物をする以外にはほとんど何もしない。ひどく退屈なので「ウォールデン」なんかを読みながら待ち続け、一年以上の時間を無為に過ごす。
 ちょっと悪くないのじゃないか、その生活。

 一日に一冊本を読み、それについて何かしら書くということを続けていると、いつの間にかあらゆる本はアパートの窓に似てくる。どの部屋を覗いても、見えるのは自分の姿。

  惜しむらくは私の読解力と語彙力で一日一冊ともなれば格好つけている時間がないことだ。一番最初に頭に浮かんだことを書いてしまわなければ、その後何時間パソコンに向かっても何も出てこないことがわかっている。だからどんなに不本意でも浮かんでしまったら書くしかない。
 まさかいい大人になってから子供時代の身内の話なんて進んで言語化したいわけではない。人生の不発ぶりを喜んで吹聴してまわりたいわけもない。でも窓の中というのは無防備だからこそ、わずかばかりでも見る価値があるのではないか。
 私にもある日突然ドアを開けて入ってきた依頼者は、居たのだ。
 ただし自分自身である。誰が望んでるわけでもないのに、窓の中に自分の姿を覗き込んでは報告書を書いていく。

 昔から読んだ本をすぐに手放す習慣があるのでずっと蔵書をもたずに生活してきたが27歳から手離さずにいる本が一冊ある。「ウォールデン」である。年齢まで覚えているのは、それがヘンリー・ソローが森にこもった歳だからだ。
  私立探偵のブルーは何も起こらない日々に退屈して片手間に「ウォールデン」を読みはじめる。

ソローがくり出す言葉に彼は退屈し、どうにも集中できない。何章も過ぎていって、ふと気がつくと、頭の中には何ひとつ残ってないのだ。森の中で一人きりで暮らそうなんて、何だってそんなことしたいのだ?豆を植えるだの、コーヒーは飲まないだの肉は食わないだの、いったい何の話だ?何だって鳥の描写なんかがこんなにえんえんとつづくんだ?この本はきっと何かの物語なんだろう、とブルーは思っていた。少なくても物語みたいなものだろうと。だけどこいつはただの無駄話だ。何でもないことについて、際限なくまくし立てているだけだ。

 依頼人が来る前から、私もブルーもそもそもそういう性格だったのだ。何も起こらないところで向かいのアパートの窓をじっとみている。何も起こらないようでもあるが、忘れ去られていた窓の中の生活について何か気付くと、その中の人物は何十年の時空を超えてほんの少しだけ行動を起こす。少しずつ、アパートは生気に満ちていく。
 やっかいな時もあるが、基本的には贅沢な依頼だ。

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