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読んでない本の書評72「城」

 272グラム。こんなに厚くて重いのに、何も起こらないし、未完である。とにかく城は出てこない。

 年末の大掃除というものにはゴールがない。「まあ、こんなもんだろ」と思えばそこで終わっても誰にもとがめられない代わりに、やろうと思えば延々と続けることもできる。 

 たとえば、台所シンクのパッキンの黒ずみは、どこまで戦うべきものなのか。どの程度ならば見て見ぬふりをしてよいのか。パッキンにだけ年内の時間と労力の全てを投入すればぴかぴかにすることは可能ではあろう。しかし、家というのはシンクのパッキンのことだけを言うのか?風呂の換気扇は家に含まれないのか。窓のサッシはどうか。冷蔵庫の拭き取りは。クローゼットの奥で猫が一年かけて細切れにした段ボールのかけらはいつ取り出すのか。全部家の中のことなのに進めども進めどもゴールは近づかない。
   大丈夫、こんなことだろうと思って、あらかじめカフカの「城」をポケットに入れてある。

  「城」から仕事を請け負った測量技師が、城下町のような村にやってくる。そこで城へ行く方法を訪ねてまわるが誰も教えようとはしない。ぐるぐるぐるぐる、要領を得ない会話を繰り返しながら回り道をしているだけだ。

 どうせたどり着かないのは知っているので、こちらも頭から順を追って読んでいくほどの気をつかうつもりはない。重曹を山とふりかけたガスコンロの五徳を前に、いったん座ってポケットから取り出した「城」を適当に開いて読み始めるのだ。あろうことか、測量技師は酒場の女性と同棲を初めて、この村を出ていくの、出て行かないの、元カレがどうの、などの話をしている。仕事はどうした。


 もうこうなっては仕方ない。こちらも本腰入れて、ゴム手袋を脱いでコーヒーを淹れる。片目で「城」を、片目で五徳の油汚れが浮いてくるのを待っている。慌てる必要はない、どうせ測量技師はどこにもいかないし、何もしないのだから。コーヒーを飲み終えたら、またゴム手袋をして、古歯ブラシを持って立ち上がる。いざ、城を目指して。

 さっぱり要領を得ない人たちが入れ替わり立ち代わり出てきておかしなことを口々に言っては消えていく様子を見ているのは愉快だが、こんな小説、書いた方も書いた方だし、世に出した方も世に出した方だ。大掃除の時期以外の、どんなタイミングで読んだらいいのかさっぱりわからないではないか。
 しかし、報われているような、報われていないような、芒洋とした労働をする時間には抜群に愉快でもある。城に着かないんだよ、とにかく。


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