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読んでない本の書評33「阿片 或る解毒治療の日記」

101グラム。短いながらも「これは読む順番を間違えているぞ」と思いながらページをめくる。せめて「恐るべき子どもたち」あたりを先に読んでおくべきではなかったか。

 そもそもジャン・コクトーが誰だかあまりよく知らないのである。詩人なの?映画監督なの?作家なの?何やって食べてた人なの?と思っている。
 さらには阿片をよく知らない。映画などではよく阿片窟で人がゴロゴロ横になってとろんとした目で煙をはきだしてる様子は見るが、どれほどの中毒症状を起こす物質なのかというような知識はない。
 また、思うにジャン・コクトーというのはある程度、人を食ったインテリなのではあるまいか。副題で「或る解毒治療の日記」とあるのだから具体的に七転八倒していてくれればこちらとしても了解しやすいのだ。糸井重里の禁煙日記みたいに会社でぽろぽろ涙を流した、という話ならなんとなく事の重大さを把握できるし、わかりやすいからこそ申し訳ないけどもカタルシスもある。
 それが阿片もジャン・コクトーもちゃんとイメージできてないところにもってきて「阿片はいいものなのに、あれがもう二度と使えないのは残念なことだなあ」みたいな悠然としたことを言われると、こちらとしてもカッとなって、「そもそも、お前誰だよ」という気分になってくる。私のほうこそ、誰だよ、なんだけど。

この飛行絨毯が存在すると知りつつ、自分はもうそれに乗らないのだと思うことは辛い。カリフの市のバグダッドのように、穢い路地の、洗濯物の旗飾をした中国人の店で阿片を買うのは楽しかった。買った阿片を試みるために、急いで自分の家に帰って、サンドとショパンの住んだ柱間の室で、それをひろげて、その上に寝ころんで、港に面した窓を開いて、喫み始めるのは楽しかった。たぶん、楽しすぎたのだろう。

 それはたしかに惜しいことをしましたね。スターウォーズに出てくるバザールの賑わいのような、いかがわしくて包容力のある雑多な街の様子が目にみえるよう。薬物としての効果の他に、ヨーロッパのインテリが憧れたエクゾティシズムがあって恰好良かったのだろうな、などと思う。

 そして表紙裏の著者の写真である。どこからどう見ても、一点の曇りもない「ええかっこしい」。北海道弁で言うところの「じんぴこき」の肖像である。ジェフリー・ラッシュに似たひと目を引く風采をしており、手の位置も足の位置も正確な置き場所が分かったうえで完璧な構図でそこに置いてあり、身体にぴったりのよく似合う服を着て、わざわざソファに靴のまま足をのせている。どれほど気障なナルシストだと著者近影がこういう写真になってしまうものか、阿片以上に想像がつかない。
 裕福な生まれで、子どもの頃から秀才で男にも女にもよくもて、芸術の申し子、だそうである。せめて禁断症状で七転八倒くらいはしておいてくれないと私に読み取れる要素が一個もないではないか。

 そんなことを考えていたら、ついにひとつすごい要素を発見した。写真の右肩あたりに、何か生き物のような丸くやわらかなカーブを描き出すものが写り込んでいる。猫のようにも見える。暖炉の上の猫に、見えるような見えないような。それはいったい猫なのか、猫じゃないのか、猫なのか、ジャン・コクトー。(どちらにせよ、どうせ計算ずく写り込ませてあるんだろう。ちぇ)


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