見出し画像

Netflix『舞妓さんちのまかないさん』を見た、韓国の人に言われたこと

 つい先日、Instagramでヨーロッパ在住の日本人女性がNetflixで配信中のドラマ『舞妓さんちのまかないさん』を絶賛しており、是枝裕和監督が総合演出と書いてあったので、早速見てみることにした。

 物語は、青森の中学を卒業したばかりの2人の少女、キヨとすみれが、舞妓になることを夢見て京都の屋形に住み込むところから始まる。修業が始まるや否や、頭角を現すすみれ。一方、キヨはマイペースすぎて明らかに芸事の才能がない。早々に里に返されそうになったその時、屋形のまかない担当だった女性が仕事を辞めることになり、キヨは自ら「料理をさせてもらってもいいですか?」と手を挙げる。

 キヨは幼い頃から祖母の家事を手伝っていたのか、家庭料理が得意な様子だ。親子丼、おにぎり、ナスの揚げびたし、卵サンドイッチ、唐揚げ、ひっつみ汁(青森の郷土料理)、かきもち、京風うどんなど、劇中に登場するまかない料理はどれも派手ではないが、食べたらきっと「ホッ」とする、そんな品々だ。

 キヨの料理を食べた人たちは「普通においしい」と目を細める。これは屋形のまかない担当にとって最高の誉め言葉であり、キヨの料理の腕が確かであることを物語っている。なぜなら「日本の家庭料理」とひと言で言っても、北は北海道、南は沖縄まで、気候も自然環境も多様な日本では、地域によって使われる調味料や食材、好まれる味付けが違うわけで。日本各地から京都にやってきた舞妓・芸妓たち全員が「おいしい」と思える味を提供するのは、簡単なことではないからだ。

 こうしてキヨは、自ら手を挙げた「屋形のまかない担当」に日々やりがいを感じ、ここが自分の居場所であることを確信する。一方、芸の習得に励むすみれも、その才能と努力を師匠に認められ、早々と舞妓としてデビューする日を迎える。ドラマを見る限り、この2人の間にライバル心や嫉妬心というものは存在しないように思える。「こんな友情ってあるの?」と、ちょっとうらやましくなるくらい純朴な2人の関係は、意地悪な見方をすれば綺麗すぎて、ファンタジーのように感じる人もいるかもしれない。

 このドラマは原作が漫画で、アニメ化もされているそうだが、私はそんな情報を全く知らずに見始めた。最後まで見終わって印象に残ったのは、劇中に出てくる料理のそれはまあおいしそうな様子と、まかない作りに対するキヨのまっすぐな姿勢。夢を叶えるために若くして親元を離れ、日々芸を磨く舞妓たちの日常。自分の居場所を早くして見つけられた人と、「ここではない」と悩み去っていく人のそれぞれの感情。そして、ホラー映画好きで、気高い人気ナンバーワンの芸妓・百子や、酸いも甘いも承知の上で、離婚を機に屋形へ出戻ってきた芸妓・吉乃が登場したことだった。

 特にこの、人気ナンバーワン芸妓・百子(橋本愛)の存在感は、ドラマの核となっているように感じた。芸妓という職業に誇りを持ち、それ以外の生き方なんて考えたこともない。祇園の古いしきたりに疑問を持ち、時に反発しながらも、自らの芸を磨くことに集中して生きている。男性からの遠回しなプロポーズを断って、「結婚しても子どもを産んでも、出戻ってきても、みんながこの仕事を続けていけるようにいつか改革してやりたい」という思いを胸に、ナンバーワン芸妓として走り続ける道を選ぶ。

 日本の伝統芸能を題材にしたこのドラマを制作するにあたり、おそらく様々な制約や、事情により表現しきれない部分もあっただろう。それでも、芸妓2人の姿をこんな風に強く、賢く、ユーモラスに描き、「舞妓・芸妓の世界にも時代に合わせた改革が必要だ」と明確に語らせたことは、今、ドラマ・映画業界の労働環境等に改革のメスを入れようとしている是枝監督らしい演出だったと私は感じている。

 さて、前置きが長くなったが、この作品を見終わっ夜、真っ先に思い浮かんで連絡した友人知人が何人かいた。キヨやすみれのように、いつも笑顔でたくさんの優しさを教えてくれた日本の友人たち。そして、日本の文化や食に興味・関心を持っている韓国の親しい人たちだ。

 「おもしろそう。早速見てみますね」と言ってくれた韓国の知人から、思いがけない感想が届いたのは、その翌日のことだった。

ドラマを見たんですが、韓国人としては理解できない部分があります。この監督ものすごく好きだったんですが、題材自体が女性を性商品化しているように見える部分があって、私たちにはちょっと見づらいですね。でも、食事のシーンは素敵でした。言わないでおこうかと思いましたが、あなたが韓国人の考えを理解するのに役立つかもしれないと思い、連絡しました。(私たちが感じた違和感については)この記事の後半部分でも、簡単に指摘されていますね。

 このメッセージと一緒に送られてきたのは韓国日報という媒体のネット記事で、タイトルはこのように書かれていた。『芸者になりたい少女たちの夢、友情とロマンだけだろうか?』。

 記事の構成は大きく3つに分かれ、最初に物語のあらすじを紹介。次の段落では「是枝監督はこのドラマを通して舞妓の養成課程への批判的なアプローチを全くしていない」と記し、「日本人の視線で、日本の伝統と精神を最大限好意的に見つめているドラマだ」と述べていた。

 私が驚いたのは最後の段落だった。小見出しは『伝統の継承なのか、虐待なのか』。記事は「韓国人としてはモヤモヤしてしまう部分が少なくない」という一文から始まっていた。

 まず、筆者はキヨとすみれが学業を放棄してまで京都で舞妓を目指すという点が、受け入れがたいという。舞妓になるために教育を受ける様子ひとつとっても、周りの大人はまともな進路相談さえしてあげていない、と。また、舞妓と芸妓が宴会で踊りや歌を披露した後、客と席を共にする場面も21世紀の感覚では受け入れがたいらしい。キヨとすみれが狭い宿舎で過ごし、働かされるのも不適切だし、その現状に対し屋形の主人の娘が批判的な意見を述べているものの、「WHOに告発する」というユーモア程度で終わってしまっていた、と。筆者はこれだけの指摘を書き並べた後、記事を唐突に終わらせていた。

 私は逆にこの記事を読んでモヤモヤし、なぜモヤモヤするのか?息子を寝かしつけながらずっと考えていた。韓国では義務教育を終了後に職に就く人たちっていないのかな?いや、芸能人の中にはそういう人もいるよね?それから、誰かにだまされたり、無理やり連れて行かれたりして舞妓になるわけじゃなく、自ら進んで親元を離れ、芸を磨くための厳しい道を選択しているんじゃないのかな?今の時代に合わないやり方が、まだたくさん残っているのかもしれないけれど、そもそもそういうことを告発するためにこのドラマが作られたのではないでしょう…と、声にならない声が頭の中を駆け巡った。

 息子を寝かしつけた後、私は早速、韓国の知人にメッセージを送った。

 記事を読みましたが、まずこれは日本人が日本で作ったドラマなので、他の国の人たちが見ると理解できないことがあって当然ですし、私はこういうドラマを通して文化の違いを感じることがとても大事だと思っています。だから感想を伝えてくれてありがとうございます。
 日本では舞妓に限らず、相撲の世界や芸能界など、中学校を卒業してすぐ練習生になったり仕事を始める人たちもいます。義務教育が終わってすぐに料理人などを目指す人もいます。
 それからこのドラマは、21世紀の今でも昔からの伝統文化を守っていこうと努力しながら生きている人たちの話なので、この記事に書かれた視点でドラマを見てしまうと、逆に、このような職業に就いている人たちに対して失礼に当たるんじゃないかと私は感じました。
 舞妓や芸妓の歌や踊りを楽しむのは昔から男性が多いですが、女性客もいますし、舞妓や芸妓は男性たちのために存在しているのではありません。伝統芸能を学び、芸術家として生きることを目標に舞妓や芸妓の道を選ぶ女性たちがいるということも事実です。
 ドラマを最後までご覧になったのならご存じだと思いますが、ナンバーワン芸妓がこんな話をする場面がありました。「結婚しても離婚しても子どもを産んでも、この職業をずっと続けられるように変えていきたい、という思いがある」と。こんなセリフがあったというのは、古くからの伝統をなかなか変えようとはしない芸妓の世界にも改革が必要だと、監督が暗に指摘しているのではないかと感じました。
 私は、普段見ることのできない舞妓や芸妓の日常生活を知れたというのが新鮮でしたし、京都だけでなく他の地域の食についての話が盛り込まれていたのがとても良かったです。日本食は地方ごとに味が異なり、とても多様ですので。

 このメッセージを送った後もモヤモヤは消えず、もしかして日本国内でも似たような指摘が飛び交っていたのかなと思い、ネットで検索してみると、やっぱりあった。中には、今のこの時代に舞妓を題材としてドラマを作るなんて受け入れがたい、という声もあって驚いた。多様性だとかマイノリティだとか、そんな言葉が飛び交うようになった日本や韓国で、今の時代の感覚にそぐわないものは受け入れたくない、あり得ないと拒絶する人たちが増えているのか…。それって多様性を認めるどころか、逆に排他的な社会になっているんじゃないだろうか、とすら感じ、私は怖くなった。この世に生きるどんな人も、ドラマの主人公になり得るのに。

そのような抗議を受けてか、是枝監督が自身のホームページに声明文を公開していることもわかった。その中で一番印象的だった文章を下記に引用している。

自分がやりたかったのは、百子さん姉さんの恋人が体現するような、悪意はないけれど、彼女達の仕事を、自分と比べてどこか軽く見たり、本当はやりたくないのだろうと思い込むような、優しさに包まれて見えにくい潜在的な「偏見」でした。更にはそのような外部の目を手玉に取りながら逞しく生きていく吉乃の「賢さ」でした。

是枝裕和監督の声明文より

 翌日、知人からは「十分に理解しました。近い国ですが文化がたくさん異なりますね。日本を理解するためにとても役立ちました。ありがとう」と返信が届いた。

 私は幼い頃から日本各地を転々として暮らしてきた上に、今は韓国人の相方と結婚して韓国で暮らしている。だからか、幼い頃からいつも気分は「根無し草」だったし、新しい土地で出会った人からは「外から来た人」、ひどい場合は「どこの馬の骨」という視線で見られることがあった。今は「外国人」というカテゴリーに当てはめられている。

 そういうわけで、思い返せば自分の人生は「郷に入れば郷に従え」で、異なる方言や言語、文化を持つ人たちをまずはこちらが受け入れる。その繰り返しだった。でも、時として相手の考えを受け止めつつも、自分の意見をはっきりと述べたくなる時がある。それが今だ。

 まだ言葉にならない思いもあるけれど、海外で暮らしている私にとっては、日本が懐かしくなり、京都を旅したような気分にさせてもらえる、そんな作品でもあった。音楽家になりたいと、6年間ほぼ毎日コントラバスの練習に明け暮れていた、10代の頃の気持ちを思い出したりもした。

韓国ではドラマのあらすじをまとめた動画を見ただけで、その作品を知った気になっている人も多いのが事実だが、それってすごく残念だなといつも思う。「なんか気になる、この作品」という人は、ネットで飛び交う記事を鵜呑みにして偏見を持つのではなく、ぜひ最初から最後まで自分の目でしっかり見て、感じてみてほしい。


 

 

この記事が参加している募集

今こんな気分

この経験に学べ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?