見出し画像

牟田 都子『文にあたる』

☆mediopos2839  2022.8.26

〈本を読む仕事〉としての
校正・校閲についての本である

その仕事は
一冊の本をつくりあげるにあたり
誤植を見つけることから内容の事実確認まで
まさに「全部読む仕事」

一文字一文字から
文章の表記・内容・表現まで
すべてを読まなければ成り立たない
途方もない仕事である

書かれてあることを
すべて肯定することでは
その仕事は成り立たない
「疑う力」が必要であり
そこででてきた問題について
「調べる力」をもたねばならない

答えのでる問題もあれば
答えのでない問題もある

明らかに確認できる表現であればいいが
厄介なのは「ない」ことを
明らかにする必要があることだという

例として
民藝においてよく見られる
「日用の道具の美しさ」を表現した
「用の美」という表現のことが挙げられているが
『柳宗悦全集』のなかには
「用の美」という表現は見つけられないのだという

柳宗悦に関する文章があるとして
そこに「用の美」という表現が用いられたとき
その扱いをどうするかという問題がでてくる
「ない」けれど使われている
その問題にどう向き合うか

最終的には作者の意図の問題となるが
校正・校閲の際に
その「ない」問題に「鉛筆」を入れなければならない

校正は「鉛筆」で記されるそうだ
なぜ鉛筆かというと
「校正の鉛筆は絶対では」なく
作者が「不用と思うなら消していい」からだ

翻訳者の柴田元幸が
「悪文と言われるような文章を、
かんなをかけたみたいにきれいにしちゃいけない」
という話をされているように

「著者はもっと自分の言葉に頑固であっていい。
譲らなくていい。校正の鉛筆は絶対ではありません。
不用と思うなら消していい。
そのために鉛筆で書いているのだから。」

難しい仕事である
書いているのはあくまでも作者であって
校正・校閲はあくまでも黒子に徹しなければならない
良き黒子であってはじめて良き書物が生まれる

ちなみに個人的にいえば校正が極めて苦手である
じぶんの書いた文章でさえ
誤字脱字ばかりであることも多い
この校正に関する本を読んだのをきっかけに
じぶんの文章に対する「疑う力」を持てればいいのだが
内容に対する「疑う力」は持てたとしても
誤字脱字に関するその力はいまだ持てそうもない…

■牟田 都子『文にあたる』
 (亜紀書房 2022/8)

(「はじめに」より)

「本を読むことを仕事にしています。
 といっても、いわゆる「読書」とは少し違います。本が出版される前にゲラ(校正刷り)と呼ばれる試し刷りを読み、「内容の誤りを正し、不足な点を補ったりする」(『大辞林』)のがわたしの仕事です。本作りの中で「校正」や「校訂」と呼ばれる工程です。」

「どんな本を読むかは個々人の選択です。校正の場合は編集者から依頼されたゲラを読むので、自分なら選ばないような本を読むことのほうが、わたしは多いです。自分なら選ばない本を読むのは退屈かと思いきや、一冊の本をくり返し読む、理解できるまで読む、とことん調べながら読むことには、それまでの「読書」にはないおもしろさがありました。編集者から新たなゲラを預かって最初の一ページをめくるときはいつも、期日までに読み終えられるだろうかという不安と、今度はどんな世界が待っているのだろうという興奮が入り混じり、マラソン大会でスタートラインに立つときのような気分を味わいます。十年以上続けても飽きることはありません。そのおもしろさをひとことでいいあらわせたらと思うのですが、うまいひとことが思いつかない。だからこの本を書きました。
 本を読むことは本来自由な行為です。どこから読み始めてもいいし、いつ読み止めてもいい。読み飛ばしてもいいし、同じところを何度読み返してもいい。ここまで読んで少しでも「校正」や「読む」ということに興味を持たれたなら、気持ちの向いたところからページをめくっていただければうれしいです。」

(「1 赤鉛筆ではなく鉛筆で」〜「全部読む仕事」より)

「(高木崇雄『わかりやすい民藝』)
  僕は何度も『柳宗悦全集』を読んでいるのですが、いまだに柳自身の文章から「用の美」という言葉を見つけることができないんです。ですから最近僕は、本当は柳の言葉ではないかもしれない、と思ったりもします。」

「「日用の道具の美しさ」を表現した言葉が「用の美」であると疑ったことはありませんでした。
 ところが「民芸」とは何かを問い直そうとする著者は、「用の美」はほんとうに柳宗悦の言葉なのだろうかと疑義を述べるのです。」

「これはなかなか厄介な問題です。ほんとうに「用の美」が柳の言葉ではないなら、どうすれば「ない」ことをあかしたてられるのか。」

「校正ではしばしば「岩波書店版『プラトン全集』全十五巻+別巻の中からゲラに引用されている『洞窟の比喩』のくだりを探す」といった事態が発生します。これはある意味では簡単なのです。時間はかかりますが、索引やインターネットの助けを借りれば、「全集第十一巻五一四ページ」と答えを示すことはできる。それにひきかえ「ない」ことを証明するのはずっと難しい。」

「「ない」証明が困難であるということは、校正という仕事そのものについてもいえます。校正を終えたゲラにサインをするとき校正者は、「このゲラにはわたしが拾った以上の誤植はありません」と断言している。極端なことをいえば、たとえゲラがまっ白なまま戻ってきたとしても、全部読んだうえでほんとうにひとつも誤植がなかったのか、読まずにサインだけして戻したのか、証明することはできにくい。それでも「校正」とは、「全部読む」仕事ですし、編集者は校正者が「全部読む」と信じて依頼している。良心と信頼によって成り立っている仕事であるともいえます。」

(「1 赤鉛筆ではなく鉛筆で」〜「すべての本に」より)

「(寺田寅彦『寺田寅彦 科学者とあたま』平凡社)
  間違いだらけで恐ろしく有益な本もあれば、どこも間違いがなくてそうしてただ間違っていないというだけの事以外に何の取柄もないと思われる本もある。これほど立派な材料をこれほど豊富に寄せ集めて、そうしてよくもこれほどまでに面白くなくつまらなく書いたものだと思う本もある。」

「そもそも、本にはなぜ校正が必要なのでしょうか。誤植をなくすため? 誤植とはそんなに悪いものでしょうか。
 誤植の生むが刷り直しなそ具体的なペナルティに直結する商業印刷校正のような現場では、もちろん誤植はあってはならないものです。ミスを紙面化しないために昼夜の別なく業務に従事している新聞の校正記者のような人たちもいる。でも、自分が読んできた本をふり返ってみると、誤植があることが本の価値を下げるかといえば、そうとはいいきれないようにも思い得ました。
 固有名詞や数字が間違っていたり、事実とは異なった内容が書かれてあったりすることで、不利益や損害を被る人がいる。それはもちろんあってはならないこと、防がなければならないことです。しかし、誤植があっても読者にとっては有益な本、かけがえのない本であるということは、珍しくないのではないでしょうか。
 一方で、誤植が限りなくゼロに近かったりしても、ある人にとっては有害であるといわざるを得ない本もある。」

(「2 常に失敗している仕事」〜「上手い人を見る」より)

「(服部みれい『あたらしい東京日記』大和書房)
  「上手いひと」を観ていないと、目がおかしくなるって話。なんだってそうだよね。わたしの行くプールは、世界的に活躍するアスリートたちも泳いでいて、そのなかでも特に上手い人を観る。」

「校正を勉強したことがありません。見よう見まねでしのぐうち十年以上が経ってしまいました。学校に通い、系統立てて学んだ人から見れば、おかしなところもたくさんあるはず。ですが、現場こそが最良の学校であると身をもって体感してきたともいえます。」

(「2 常に失敗している仕事」〜「かんなをかけすぎてはいけない」より)

「(村上春樹『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』中央公論社)
  ——編集部 柴田(元幸)さんの講座を受講した人が、「悪文と言われるような文章を、かんなをかけたみたいにきれいにしちゃいけない」というお話が印象的だった、と言っていました。とすると、これは日本語として読みづらいなという訳文も、あえてそのままにされるんですか?」

「ゲラ上では「野の言葉」をそのまま留めおきたいと思っても、仕事である以上「念のため」鉛筆を入れるべきかと迷う。入れれば「直って」しまう。直さなくていいのに、と校正者がいうのはほめられたことではないのでしょうか。著者はもっと自分の言葉に頑固であっていい。譲らなくていい。校正の鉛筆は絶対ではありません。不用と思うなら消していい。そのために鉛筆で書いているのだから。」

(「3 探し続ける日々」〜「疑う力」より)

「(小川洋子『とにかく散歩いたしましょう』文春文庫)
  漢字や言葉遣いの間違いだけではない。年号を勘違いする、三輪車の構造をでたらめに説明する、東西南北が入り乱れる、カワウソの肉球の数を間違える、季節はずれの花をさかせる……。私はありとあらゆる間違いを犯す。けれど校閲者は、「こんなことも知らないのか」というあきれた気配は微塵も見せない。どの赤字にも、どの「?」マークにも、「ここ、もう一度考え直されたらいかがでしょうか」とささやくような謙虚さがこめられている。時には三輪車の図解や地図やカワウソの写真のコピーが、そっと添えられている。」

「調べることには段階があります。ゲラを読んでいて疑問が生まれ、何を使って調べるか考える。しかし「調べる」始まりはそこではなくて、まず「疑う」ことなのです。「パンダの尻尾は白い」という典拠を示すことは、これまで書いてきたようにそれほど難しくありません。でも、尻尾の黒いパンダを見たときに「パンダの尻尾の色は黒でよかった?」と思えなければ、そもそも調べることもできない。校正の技術として「調べる力」があるならば、さらに求められるのは「疑う力」であるともいえます。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?