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「引きこもり」を哲学する(1万字)

不登校が引きこもりに遷延するパターンは必ずしも多数ではないが、仕事や学業といった社会参加に課題を持つ点において、不登校と引きこもりには類似点が見られる。

もとより、そのような課題があるからといって、直ちに負のイメージを持つのは早計である。社会参加から一時的に距離を取り、固有の時間を持つことで、それらの人々は、社会に対して新しい価値を生み出す可能性がある。つまり、引きこもりは積極的な形態を取ることもある。

しかしながら、改めて問題とされている事例はそうではなく、むしろ無為と思える形で時間を空費しながら、いたずらに年齢を重ねるような場合を指すのであろう。確かに、単に食物や情報を消費するだけでも、社会参加とは言えなくはない。しかし、そのような価値転倒は、必ずしも建設的な仮説とは言えないであろう。むしろ、引きこもりの人々がいかに積極的に生きがいを見出せるかが焦点となるだろう。

したがって、引きこもりに対する支援に当たっては、単に見守るだけでは、現状の固定化につながる恐れがある。仮に何らかの望ましくない現状があるならば、それを変化させるために、何らかの介入が必要であろう。

言うまでもなく、その介入は侵襲的であってはならない。

確かに、引きこもりの人々を正論で鞭打つことは簡単である。
念のためにいえば、そもそも「働く者食うべからず」や「勤労の義務」は、倫理的に他人を裁く趣旨で唱えられた言葉ではない。前者は、パウロの言葉であり、古代では地位が低い労働階級に対する弁護である。後者は、日本国憲法の趣旨に照らせば、資本家や大地主が不労所得に依存することを牽制したものである。したがって、いずれも引きこもりの人々には当たらない批判である。

しかし、仮に当たっている批判であるとしても、何らの丁重さも礼儀もなく、相手に人格攻撃を浴びせかけるのは、まったく相互利益的ではない。引きこもりへのバッシングが無益なゆえんである。

もちろん、弱者は決して無謬ではなく、それゆえモラルハザードが起こることもあるだろう。しかし、もし道徳的な善悪を論ずるならば、モラルハザードを一律に糾弾する人々の方が、むしろ社会人として非常識であろう。

それゆえ、介入が必要といっても、侵襲的な介入はむしろ害悪である。むしろ、大切なのは礼儀を欠かさない対話の態度である。
では、どのような介入によって、引きこもりの人々を生きがいのある人生へと導くことができるだろうか。

もちろん、生きがいを見出すのは引きこもりの本人に他ならない。本人の意思が自発的に動かないかぎり、いかなる理想的な条件を外部から提示しようと、本人の人生は何も変わらない。それが自他に与えられた距離であり、これを力で打ち壊そうとする試みは、無残な失敗に終わる可能性が高い。

とはいえ、自他に越えられない隔たりがあるわけではなく、人格的な感化を通じて、さまざまな理念を浸透させることは可能である。一般論として、外部の刺激を通じて、人間は人格的に変容する可能性が常に残されている。

その際に求められるのは想像力である。とはいえ、引きこもりの人々を想像するのは難しいことである。なぜなら、ある意味では、当事者の問題は当事者にしか理解できないからである。

とはいえそれは、当事者性を盾に取って、アイデンティティ・ポリティクスの弊害を無視する趣旨ではない。むしろ、当事者の声をあくまでも前に押し出すが、その一次体験ゆえのバイアスを絶えず修正するという意味である。

その意味で、精神科医や臨床心理士の観察は、有益である。治療仮説は、当事者の要請を無視した観念的なものであってはならないし、逆に当事者の声は、治療体系にまで抽象化されなければ中立たり得ない。両者は相互照応的でなければならない。それが当事者研究の形である。

むろん、いかなる治療体系や経験則といえども、万能ではない。したがって「こうすれば上手く行く」という統一的な見解は存在しない。あくまでも私が述べられるのは、私と、私によく似た類型の引きこもりについてのみである。

では、引きこもりが生きがいを見出すには、どうすれば良いのだろうか。支援者は、そのような生きがいをどのように奨励すればよいのか。

私がキーポイントと考えるのは、没頭できる趣味を持ち、創作的であることである。つまり、何かを受け取るだけではなく、こちらから社会へと何かを与えることである。それは単に苦しい時間をやり過ごすため、受動的に「ガチャ」を回しているのとは異なる。

狭い意味での創作は、たとえばイラスト・漫画・文章・音楽・映像などを創ることである。しかし、必ずしもそれだけに限らず、広義の精神活動により、研鑽に励むことができるのであれば、何でも良い。私は引きこもりが「オタク」的であることは、そのような創作の材料と環境を推進する上で、望ましい条件であると考える。

個人的な経験としては、何かしら本を読み、文章を創作し、人文学的な認識を深めることが、私自身には心の救いであった。そして、世の中的な正論を相対化する契機となっていた。

一般に引きこもりの人々が、絶望感に苛まれ、集中力が低下し、無気力な生活に陥るのは、格別その人の心構えに原因があるわけではない。むしろ、人々を傷付けるような「正論」に過剰に囚われてしまった結果であると考える。つまり、潰れたネジを回すように、自傷的な自己愛が反芻されているという現象が起こっている。

創作は、そのような悪循環を断ち切る力を秘めている。そして、既存の創作物に対する深い理解へと導くことができる。つまり、創作はすぐれて批評的な活動である。ひいては、そのように批評的である時にこそ、引きこもりの人々は「世間的な正論」へと対峙し、その誘惑をはね退ける力を鍛え上げ、自らの固有の自由を社会の場において貫徹することができるのである。

世間的な正論とは、言いかえれば「無責任の体系」の別名である。正論には固有名がなく、最終的な結果責任を取る主体が存在しない。したがって、例えば「若い時の苦労は買ってでもしろ」という言葉を真に受けた結果、燃え尽きてうつ病になったとしても、「自己責任」として突き放されてしまう。正論の無責任性は、これほどにはびこっているのである。

私は、引きこもりの人々に「オタク道」を極めて欲しいと思っている。「仏道を習うは、自己を習うなり。自己を習うは、自己を忘れるなり」との標語は適切である。一切のオタク的な物事によって、自己の存在証明が確保される。そして、それによって自己の心身は絶対的に自由となるのである。

つまり、単に消費的に留まることなく、創作的なオタクとなることが、「自足的」であることの近道であると考える。一般に、道を極め、そして楽しむということが、世間的な価値から離脱する上でのキーポイントになる。

要するに、創作的であることが、社会に開かれた積極的な引きこもりであることの根本条件である。また、オタク的な領域であれば、間口が広く、特別な才能に恵まれなくとも参入しやすいと考える。そもそも、そのような間口の広さが、現今のオタク文化の隆盛を担保したと言って良いほどである。

創作活動は言いかえれば、自らが生きる物語を創り、同時代の歴史の起点に立ち、主体性を回復することである。「壁と卵」(村上春樹)の比喩を引くまでもなく、それは図式的なシステムからの自由をもたらす。そして、そのような自由を貫徹することこそ、かえって真の意味で社会的である。そのような精神的自由がなく、社会参加はしているが、お金のためにやむなく働いて、家に帰ってきたら酒を飲んで寝るだけでは、いわば裏返しの引きこもり状態と言われても仕方がないだろう。

創作的引きこもりは、一つの社会参加である。むろん、経済的な制約を否定するつもりはない。たとえ成長もなく、嫌々働いていようが、現生のお金を稼いでいることは無条件に尊く、自由なのであって、それに比べれば引きこもりの「社会参加」は、いわば現実を直視しない遊民の空論という見方もあるだろう。

しかし、それは経済至上主義であり、ありとあらゆる価値が利潤へと一義的に翻訳可能とする誤りを犯すものである。むしろ、現実世界は必ずしも金にならなくとも、さまざまな形で価値を生み出す活動を包括している。人文研究で例えれば、天皇の古墳の研究は利潤を生むことはないが、だからといってその予算を削減する人はいないであろう。

私は必ずしも引きこもりの創作・自己省察を、大層なものとして権威付けようとしているのではない。実際問題として、その創作物の大半は類型的かつ平凡なものであろう。ただ、このような精神価値の生産も、何らかの社会的な活動の一環として位置付けるべきであるし、またそうでなければ、社会は貴重な内的経験を取りこぼすことになると言いたいのである。

そもそも、精神的自由という価値は、経済的富裕と必ずしも連動しないものである。したがって、財産順に一元的に人間を序列付けるような見方は、明らかに歪んだ認知である。なるほど孫正義は兆単位の資産を所有している天才である。しかし、彼は数千万の資産をしか持たないありふれた人間に対して、一万倍すぐれているのだろうか。むろん、精神的にもすぐれていることは事実であるが、決して一万倍ではないと思われる。

私は、必ずしも経済価値を無視して、世俗を厭離することで、純粋な精神的自由を確保するべきと主張するのではない。ただ、現今、経済価値の一元論が支配的である中で、そうではないもう一つの在りかたの価値も認めなければ、自由な包摂社会には相応しくないと考えるだけである。

以上に述べた「創作的引きこもり」の在りかたについて、もし疑問があるとすれば、それは「その自発的意欲をどこから調達するのか」という点にあるだろう。「引きこもると、意欲の減退・低下が起こる」という指摘は一般的である。

論理的に、それは自分自身の中から調達するのでなければ、他人から借りるということになる。では、透徹した自己分析を尽くすことによって、そのような意欲や欲望を触発させることはそもそも可能なのだろうか。

ある意味では、無から何かを創造することは困難である以上、必ず何かを外から借りてきて組み合わせるということになる。その限りにおいて、他人から意欲を借りてくることはたしかに必要であり、それゆえ「欲望は他者の欲望である」というテーゼは正当である。

しかし、それは「欲望は他者のみの欲望である」ことを意味しない。自分自身が欠如しているため、他者を起源とするコミュニケーションのみによって、ありとあらゆる意欲を供給・調達するということにはならない。

むしろ、自分自身の内面を見つめ直すことで、やりたいことが自然に芽生えるという要素も当然あるだろう。それすらも否定するのは、素朴な出発点を無理な理屈で曲げるものである。したがって、自我の自給自足は一定程度可能であるし、またそれこそが精神の独立の意味でもある。そのような自足性に懐疑と否定の楔を打つことには、単なる思考実験であり、さしたる実益が認められない。

それゆえ「自発的意欲」は、他ならぬ自分自身が心の中で燃え上がらせるべきものである。それが創作的な引きこもりの意味である。そして、引きこもりの支援全般も、そのような自発性を引き出すものでなければならない。つまり、可燃性の人間が、本人に接することで、本人の炎を燃やしやすくするということである。

とはいえ、すべてを引きこもり本人の実存の深まりへと還元することは、社会システムからの作用を看過することにつながりかねないだろう。不可避のそのような作用が、おのれの実存の中に一つの制約として刻印されていることは、とくに引きこもりに限った話ではない。どんな人間も、時代の趨勢から抽象的に自由になることはできないのである。

それゆえ、「引きこもりシステム」(斎藤環)は、首肯しうる治療仮説である。そして、いかにしてそのシステム的な悪循環を打破できるかが問題になる。

ここでも創作的であることは、システム内部のストレスを緩和・吸収し、逆の側から力を働きかけることにつながる。そしてその力の行きつく先には、ひいては社会・家族・個人のそれぞれの包含関係を逆転させることができる。つまり、個人が個人の立場を徹底することで、かえって「純粋経験」的に社会を包み込み、心を一つにしてその中から超え出るのである。「すべてを引き受ける」とはそのような意味である。

もちろん、誰もにそのような超越の体験を望むことは難しいであろう。誰もが己れの心を原点として、悪循環の蓄積を打破できるとは限らないであろう。システムは強固な自己保存性を持っており、これを一新することは難しい。むしろ、革新しようとするほどに、弾力的なしぶとい支配力を振うのである。

しかし、その理想は、治療仮説において忘れてはならない。引きこもり的な社会参加は、創作的な態度であるとき、フィールドとなる全世界と響き合い、真の己れを見出すのである。それがシステムをしてシステムを超え出ることに他ならない。つまり、社会自身が、引きこもる社会を開かれたものへと変革することである。

周知の事実であるが、引きこもりの原因は複合的である。あるいは、特定の原因が見当たらず、理由なく引きこもった場合であっても、それは理由がないということでなく、あまりに因果関係が拡散しているため、隅々までそれを辿りがたいということである。

そして、引きこもりにおいて「原因探し」は不毛であると一般に言われる。もちろん、何か特定の原因が厳密に究明可能で、それにより未来志向的に再発を防止できるのならば、「原因探し」からも一定の得られるものがあるだろう。

しかし、実際はそうではないことが多い。自分自身の心の中を覗いても、家族の中を観察しても、むしろそれは過去への囚われとなることの方が多い。むろん、人間は歴史的存在であり、過去を省察することが無意味というわけではない。しかし、それも未来志向的な生き方へとつながるからこそ、かえって意味を持つのである。それゆえ、過去のために過去にこだわることは、むしろ宿命論を招きかねない。

したがって、「原因探し」は、引きこもりの中では実質的に、自責感情へと翻訳される傾向が強い。しかし、百歩譲って、引きこもりが何か悪いことをしたのだとしても、自責感情から得るものはない。それは世間的な正論と結託して、限りない悪循環へと本人を溺れさせるだけである。

むしろ、早急に取り組むべきは未来へつなげるための行動である。先に述べた、クリエイティブであるための研鑽である。建設的な意味での自己省察は、そのような表現活動を通じて可能になる。

それが真の意味での「原因探し」であり、単に類型的な自責感情に身を委ねることの対極にある。繰り返すように、「原因探し」は未来志向的でなければならない。言いかえれば、過去の因果の認識は、希望の原理でなければならない。最終的にそれは、社会システムとの相互連動を保ち、そして一切の境界を超え出るものでなければならない。

言うまでもないが、「原因探し」は「犯人探し」の論理ではない。「犯人探し」は、ほんの少しの留保もなく、有害無益である。「母親の愛情不足」とか「父親の無関心」といった家族関係に責任を帰しても、それは建設的な仮説ではない。最悪の場合は、責任のなすりつけ合いになる恐れすらある。

したがって、厳密な意味において、「原因」はあるかもしれないが、「犯人」はいないと考えるべきである。それは、自分自身を「犯人」とする場合も同様である。したがって、引きこもりは自分自身を「怠け」「わがまま」「甘え」と非難してはならない。

「母親の愛情不足」について、さらに考える。引きこもりの原因が母親の愛情不足に帰せられるかどうかが主要な論点となる。

たしかに、愛情は子供の生育において重要な役割を果たしている。愛情豊かな子供は、感情的・社会的・認知的な面で成長を遂げるものである。逆に、愛情不足の子供は、不安定で自己肯定感が低下しがちである。

しかし、引きこもりが愛情を注ぎ込めば治るかどうかは、依然として問題である。なぜなら、家族の愛情は、たしかに温かいものとはいえ、聖なる無償の愛とは限らないからである。

仮に完全無欠な愛を注ぎ込めるなら、それによってどんな引きこもりも治すことができるだろう。無論、たとえ肉親であっても、それは人間には及ばないことである。したがって、家族の愛情は有意義ではあるが、一つの限界がある。

その限界は、感情的な両価性である。簡単に言えば、「可愛さ余って憎さ百倍」といった状況に陥ることである。また、愛情は往々にして、遠くから丁寧に見守るのではなく、ゼロ距離へと縮まりかねない傾向がある。そのようになると、本人が心理的な退行を起こしかねない。それが度重なると、本人の自己効力感がかえって低下してしまう。

繰り返すように、愛情は無益ではない。それは発達段階における必須の条件でもある。しかし、愛情は引きこもりの万能の処方箋ではない。言いかえれば、「受容」は無際限の治療リソースではないのである。本人がどんなおかしな行動をとっても、ありとあらゆることを「受容」するのでは、現状の悪化を招きかねない。完全無欠な「受容」というものは、およそ人間関係としてはあり得ないのである。

したがって、受容については何らかの基準を作ることが必要である。
例えば、暴力や金銭の欲求や際限のない謝罪の強要など、無益な行為が退けられるのは当然である。しかし、治療にせよ家族関係にせよ、受容が基本的な態度でなければ、そもそも関係が成り立たないことも事実である。むろん、正論で追い詰めるような態度は、まったく受容からほど遠いからである。

それゆえ、受容の意義と制約は表裏一体である。そして、そのような受容の意義は、引きこもり本人が安心感を持てるようなものでなければならない。言いかえれば、「安心して引きこもれる環境作り」(斎藤環)が求められる。

もとより、引きこもりは「安心」からもっとも遠い地位身分である。経済的な従属と精神的な混乱のただ中に立たされている以上、そのことに疑いはないであろう。したがって、引きこもりには安心が求められるわけである。「安心させてしまえば、ますます引きこもるのではないか」との懸念は当たらない。なぜなら、真の意味で安心を得られたならば、そもそも引きこもっている理由がなくなるからである。

言いかえれば、「安心」は「他者からの承認」と密接に関係する。このような承認は、いわゆるマズローの欲求の段階説とも対応する。つまり、「生理的欲求→安全の欲求→所属と愛の欲求→承認と尊重の欲求→自己実現の欲求」となる。

「安心して引きこもれる環境」が、「安全→所属と愛→承認と尊重」と、大まかに対応していることは明らかであろう。そのような環境がなければ、引きこもりの人々は、とうてい「自己実現」つまり社会復帰へと至ることが難しいであろう。

先に述べたように、引きこもりの最終的な目標は、単なる社会復帰ではなく、クリエイティブな引きこもりを通じて、社会を超え出ることでなければならない。それはマズロー流に言えば、「自己超越の欲求」として、「自己実現の欲求」の次に来る最終の段階と位置付けられる。

しかもそれは、「九顕一密」かつ「九顕十密」(空海)的な段階論でなければならない。つまり、「自己超越」は最終的な境地であり、「超越以前」のさまざまな境地とは区別される。つまり、段階を一歩ずつ昇ることで、超越に至るものとみなされる。にもかかわらず、究極的・大乗的な一元論としては、「超越以前」のさまざまなプロセスも、「自己超越」の境地に等しく、その円環的な現れなのである。

簡単に言えば、それは「衣食足りて礼節を知る」ということである。「自己超越」と絡めて言えば、「衣食足りて礼節を知る。礼節を知って天を知る。天があるからこそ、地上の衣食や礼節がある」ということである。

引きこもりの人々と言えども、衣食の欲望は基本的に低下しないであろう。低下しやすいのは、「承認の欲求」であると思われる。だからこそ、引きこもりが重くなると、これ以上何もしたがらなくなるということである。つまり、お小遣いを欲しがらなくなったり、物欲が衰えたりするということである。

そのような衰えは、危険な兆候である。なぜなら、欲望があるからこそ、そもそも何かをしたい・しなければならないと思うことも可能になるからである。しかし、欲望が消えてなくなってしまえば、まるで無為に枯れて生きることが最善ということになりかねない。むろん、「無為自然」も一つの見識ではあるだろう。しかし、治療仮説としては、あくまでも欲望を温存・成長させることを強調しなければならない。先に述べた「自己超越」もまた、一つの欲望なのである。

むろん、欲望そのものは善でもなければ、非善でもない。人間は善悪の一辺倒で生きているわけでもなければ、快苦の一辺倒で生きているわけでもない。両者の統合体として、バランスを取って行動しているのが現実である。したがって、欲望を強調するからといって、たとえばオンラインゲームに依存する状態を擁護しているわけではない。

しかし、引きこもりの人々は、あまりに社会との接点が失われた結果、行動の原動力が衰えてしまう場合が多いため、むしろ欲望を持つこと自体が善いと考えるべきということである。欲望の洗練化や現実との折り合いは、その次に来る段階である。

このような欲望を煥発するためにも、引きこもりに対しては何らかの介入が必要である。言いかえれば、病気ではなく状態像であるからといって、放置することは良くないということである。

そのような介入は、一言で言えば引きこもりに対して何らかの人間関係を保障するということである。先に述べたように、たしかに引きこもり本人が、一人切りであれこれと内省を深めることで、クリエイティビティの花を咲かせることは可能であるし、またそうするべきである。ただし、そのように創作的な態度を取るためにも、外部からの支援があれば、さらにその態度を育みやすくなるということである。

その限りにおいて、「意志や欲望は他人からもらうもので、一人だけでは湧き上がらない」という指摘も正当である。それは他人から教わらなければ、創造するための特定の知識や技術が足りなくなるという意味ではない。むしろ、大抵の知識は、意欲さえあれば、内省を深めることで、かなりの部分にわたって血肉化することができる。人間には、そのような理性がもともと備わっているのである。

しかし、意欲だけは無から生まれるものではない。たしかに、偶発的にふと、何かをしたくなることはあるかもしれない。しかし、中長期的に何かの行動を続け、それにより創造の技術を磨くためには、意欲や意志を調達することが不可欠である。

そして、そうしたものを活性化するためにも、人間関係の総体をまったく切り捨てるというのは賢明ではない。世間並みの人々は、個人差はあるが、数名の友人を持つものである。その程度で良いから、引きこもりの人々も社会の場に出て行くのが良いと考える。

人間関係のメリットは、朱に染まれば赤くなるの論理で、手っ取り早く意欲を調達できることである。仮に引きこもりの人々が怠け者に見えるとしたら、それは意欲や意志の問題というより、むしろ人間関係の総体に触発される経験の乏しさであると思われる。

それゆえ引きこもりの人々は、決して怠け者ではない。たしかに、世間の人々が平均的にそうである程度には、怠けることはもちろんあるかもしれない。にもかかわらず、引きこもりの人々が怠け者に見えるのは、そのような触発体験の不足によるものかもしれない。

繰り返し述べるように、意欲や意志は、自分自身の内から調達するから、外部の他人から触発されるかの両面で考えなければならない。
世の中の人々は、決して有能であるから働けているのではない。むしろ、人間関係に触発されているからこそ、一通りそれなりに働くことができているのである。

引きこもりの人々の社会参加も、つまるところ、人間関係という欲望を強化することに由来するのかもしれない。

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