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人生と方向感覚

物心ついたころから方向感覚がない。長いこと「極度の方向音痴」という自虐で済ませてきたのだが、数年前に「やはりおかしい」と思い立って役所にも相談。今では福祉の支援まで受けている。この類の不自由は他にもいくつかある。

筆者は視覚優位なため、風景はわりと覚えられる。逆に言えば道は「絵」でしか覚えられない。例えばある場所に行くとしても、「あの赤いビルの右下にある黄色い看板を右に行く」といった視覚情報がなければ基本的に到達できない。もし看板が撤去されると完全に道に迷う。コンビニはともかく大きなスーパーや、何度も足を運んでいる書店などでもレジや出口の場所がわからなくなることがしょっちゅうだ(似たような棚を目にしても、見分けがつかない)。どうしてこんな具合なのだろう? 生理学的な理由も、何かあるかもしれない。だが筆者が考えてきたのは、主に心理学的な原因である。

先日古本屋で入手した、中村雄二郎・山口昌男『知の旅への誘い』(岩波新書)に「方向ー意味を生むもの」という項目がある。まだ斜め読みだが、言葉の意味に始まって心理学や哲学などの側面から、人間にとっての「方向」について考察されているようだ。それによると1930年代のインドネシアのバリ島では地理的な方角というものに対して、現地の人々が「人生を歩む意味」を重ね合わせていたとのこと。中村によれば方向性は、意味を象徴するらしい。

考えてみれば筆者も、幼い頃から「人は、そして自分は何のために生まれ生きているのだろう」といった疑問に没頭する癖があった。そういうことを考えざるを得ない環境にいただけでなく、生来の性格もあったであろう。しかしこのことは、中村の説に妙に符合する。思い当たる節がある。さらにこの本を入手する前にも、自分で見当をつけていた答えがあった。それは「物理的な世界において自分の位置が分からないということは、人生における自分の視点が定まっていないのではないか。精神的な意味で、自分の人生を真に生きられていないのではないか」ということだった。やはり中村の「方向」=「意味」とする説にかなり近いと言える。(生育環境に対する警戒反応のひとつだという説もあるようで、こちらもよく了解できるのだが。)

最近いろいろなことが重なって、自分の人生に主体的な意味を見いだせる気がしている。そしてこれは少なくとも心理面で、方向感覚の障害が改善されうる兆しなのかもしれない。いずれにせよ筆者には、自分が単に人生に意味を見いだせずに生きてきただけとは思えない。むしろ人生の意味について、深く考えざるをえない運命だったのだろうと感じている。方向感覚の件に限らず、わりと特殊な人生だったからだ。

そうした顛末は第三者にも、まあまあ興味深く感じていただけるかもしれない。発表するかどうかはともかく、いつか記録を残してみたいと考えている。


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