見出し画像

ドライな文体

中島らもやチャールズ・ブコウスキーといったドライな文章を書く作家が好きだ。ドライと言っても彼らは感傷的で耽美な文を書いたりする。郷愁に思いを馳せたりする。「青を売る店」、「美しい手」、「町でいちばんの美女」。

ではなぜ彼らにドライな印象があるかと言えば、たぶん自分を突き放しているから。この、「突き放す」という按配がむずかしくて突き放すつもりで自分を下に置きすぎると卑下になる。

体力ならびに気力の弱さから、自然に気持が内側に折れ曲り、現実に対してはひたすら防禦の一手、刺戟に対してはかたく殻を閉じ、追い立てられれば止むなくおろおろ歩く。私は私自身の本来の性根を、先ずそういう具合に了解している。

梅崎春生「文学青年について」

卑屈さには湿気がある。

「みんなが不幸になれば、僕は相対的に幸せになる」

森見登美彦『太陽の塔』

卑屈・僻みを自虐ユーモアにしているのが森見作品の特徴。彼にも湿度の高い印象がある。

ところで一人称の多様性は日本語表現の大きな魅力のひとつだが、「僕」という一人称は自分をへりくだって言うときに「しもべ」を意味する「僕」があてがわれたのが始まりとだけあって、今でもその名残があるのかウェッティーな印象を与える。

僕は心ゆくまで冷えたアムステル・ビールを飲む。ビールはもちろんうまい。しかし現実のビールは、走りながら切々と想像していたビールほどうまくはない。正気を失った人間の抱く幻想ほど美しいものは、現実世界のどこにも存在しない。

村上春樹『走るのとについて語るときに僕の語ること』

村上春樹の一人称と言えば「僕」。しかし不思議とウェッティーな印象がない。ハードボイルド小説に影響を受けているからか、彼の文には卑屈さが微塵も見えない。代名詞「やれやれ」なんかカラッとしてる。
一人称はあくまでひとつの因子にすぎない。

ドライは無味乾燥とも違う。主張やテーゼを含んでいてもいい。要は自己保身がないってことが肝なんだろう。

どうしてこうなったのか、さっぱりわからない。どうしたらいい?
クールにやり抜くんだよ、阿呆、と答えが浮かんだ。
オーケー。
酒が来た。

チャールズ・ブコウスキー『パルプ』



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?