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表現者と不健康における現代的な潮流、あるいはかつて彼らが依存した事柄について

昨今なにかしらの創作物とその担い手について、「健康なほうが良い」という態度が目立ってきたのではないかと感じている。むしろ、不健康を冒してまで創作に励むのは愚かである、という言説さえ流布されているような気がする。例えば、作家の朝井リョウは自らを「リア充」と言っており、「非リアじゃないと小説を書けないみたいな風潮」に疑問を呈していた。

一方で国民的なポップソングの作曲家は覚せい剤取締法違反で有罪となった。過去に遡れば、「ぼんやりした不安」を抱えて服毒自殺した芥川龍之介は睡眠薬漬けになり、遂には耐性が付いていたほどであった。その知識は幅広く、学者のごとく正確だったようだ。似たように、太宰治も睡眠薬の常習者で、入水心中の際には青酸カリが用いられたのではないかと言われている。戦時中から戦後において覚醒剤はヒロポンという名前で流通しており、そもそも違法ではなかったという事情があるから、別に作家だけが薬物と関係が深かったわけではない。

もちろん薬物と付き合いがあった創作者は日本の作家だけではない。海外では著名なジャズトランペッターであるチェット・ベイカーが薬物依存であり、皮肉ながらもそれによって見事なプレイをしていたことはよく知られている。当時のジャズ界では薬物の使用が演奏に好影響だとされていたようだから、これもまた彼に限った話ではない。ちなみに、彼はアムステルダムのホテルの窓から転落死しているが、原因は明らかでない。

また、三島由紀夫が薬物と関係があったかは定かではないものの、彼はどんなに酒を飲んでも深夜0時には筆を執り明け方まで執筆していたと言うので明らかな夜型であり、身体は屈強に鍛え上げていたにせよ、今の考えからすれば間違いなく不健康だ。芥川や太宰のような理由ではないにしても結局自ら命を絶っていることは、不健康の文脈と捉えられるかもしれない。

このように、創作を担う者と不健康の関係はどの時代にも色濃く、根深いものであることは明らかだ。

しかし、冒頭で述べたように最近ではこれが良くないものとして認識されるような流れを感じる。ただの時代の揺り戻しだったり逆張り、ポジショントークに過ぎないとも思いつつ、「健康で器用で陽気な人間にも創作の権利を与えよ」という多様性確保の一端が垣間見える。つまり、「不健康で不器用で陰気なものに優遇されていた創作を、そうではないもの達にも明け渡せ」という要求であるようにも見えるのだ。その背景には技術の進展やメディアの浸透によって、創作を実現し、それを表現する敷居が下がったという環境が遠因とも言えるだろう。

業務上の事情で仕方なくTikTokのショート動画を眺めていたことがあったけど、これにはかつて専門の技術と高価な機材を揃えなければ実現できなかった映像コンテンツの企画や制作が、個人の手で容易に再現可能になったことを実感させられる。その質は到底見るに耐えないけれど、かつて一方的に視聴する側であり、特に秀でた能力もない個人が創作に参入できるようになったということは、創作に身を費やし、精神を疲弊さえ、人間に最適とされた生活リズムを無視し、ときには薬物に手を出すという過酷な条件は特に必要なくなったということである。

こういった創作・表現の敷居が下がった状況を好意的に見る向きについては理解できるにせよ、僕は本来良質だったコンテンツが不遇な立場に追いやられる危機として憂慮している。

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