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非力な私とドアの鍵、ときどきおじいさん。

今朝は色々なことが起きた。
普段は朝、散歩かジョギングへ行って帰ってきて家事、そして仕事や作業に移る……というのがルーティーンになっている。

だから今日も軽いジョギングを終えてアパートに戻り、居住者のみが使える干すスペースだけが広がる洗濯室から前日に干した洗濯物を取り込んで、自分の家のドアを開けようとした。


けれど、開かない。



ここ最近、ドアの施錠・解錠に手こずっていた。
鍵をあけるのもやや固めで、片手でドアノブを強く引いて、もう片方の手で鍵を回すことでなんとか解錠できる感じになっていた。
べつに壊れているわけではないのでそのまま使い続けていたのだけれど、今日のこのタイミングで急に解錠できなくなってしまったのだ。

腕の中には大量の洗濯物。
それを抱えたままで力が入りにくいのがいけないのかと、洗濯物を再度洗濯するを覚悟で共用部分の廊下の手すりに置く。もう一度洗濯するよりドアが開かないほうが一大事だ。
そしてもう一度トライしてみる。



やっぱり開かない。



出勤してしまった夫とは連絡が取れない。
自分で解決するしかない私は、家の前でこれでもかとドアを引っ張り続ける。
久しぶりに握力と腕力をフルに使うせいで、手首から肘までの筋肉と、指の関節がきしんだ。

この焦りと孤独感は久しぶりだ。
似た感覚を味わったのは、ドイツに来た翌日に夫が救急車で運ばれたときだと思う。
通訳さんに救急車の同乗を頼み見送って、自分の部屋へ帰ろうとしたら、同じようにドアが開かなかった。

日本とドイツの家のドアロックはちょっと仕組みが違っていて、日本のような回せばいいだけのスムーズな解錠じゃない。ちょっと力とコツがいるのだ。
我が家の場合はドアノブを引っ張って、解錠する方向へキー強くを回さなければならなかった。
それがうまくいくと、重めのカチャッという音とともにドアが開く。

到着して2日目でそのあたりのレクチャーを受ける間もなかったから、一人開かないドアの前で絶望していたのを覚えている。
スマホも家の中にあって、誰にも連絡ができない。
使ったことがない廊下の電灯の場所も探り探りで、間違えて違うボタンを押してしまわないかとヒヤヒヤしていた。


ドイツ生活2日目にして、海外生活の洗礼を受けた心地になった。
30歳を過ぎた大人でも、自分のアパートのドアもまともに開けられなくなってしまうのが海外生活なんだなと思った。

その時は夜中で廊下を通る人もなく、いたところで今よりも伝わる言葉を持っていなかったから、20分以上ひとりで格闘して、やっと入ることができたのだった。

かなり焦る状況ではあるけれど、今日はあのときほどの孤独と絶望感はない。
なぜなら、さほど言葉が通じないとはいえ、大家さんに相談するという方法があるからだ。(当時は、まだ大家さんに会ってもいなかった)

翻訳アプリを使いながら、なんとか鍵が開かなくて20分以上締め出されていることを伝えた。
すると事情を把握した大家さんは30分で行くと言ってくれた。
大家さんが本当に良い人で助かる。


その間に自分にできることはない。
強いて言うなら洗濯物を一旦洗濯室へ戻すことだろうか。
そっちのほうが洗濯物をかける場所があるし、ここにあるより衛生的だ。

抱えて持ってきた乾いた洗濯物を、再び洗濯室に持っていく。
すると下の階に住むおじいさんに出会った。
挨拶をすると、挨拶を返してくれた。

そのまま洗濯室のある地下室まで歩いていくと、先ほどのおじいさんが後をついてきて私に声をかけてきた。
「英語は話せる?」
「少しだけ……」
といったら、わーっと英語で何かを言い始めた。
細かいところはわからないのだけれど、何かを助けてほしいらしい。
アパート内でのヘルプはたいていどこかのドアを開けてとか、閉めてとか、洗濯物をそこに干さないでとか、そういうものくらいだ。
だからおじいさんの話をじっと聞いていたのだけれど……全然何を言っているのかわからない。

おじいさんの英語が訛ってるとかそういう話ではなく、私の心と耳の準備ができていなかった。
今、私は家から閉め出されて若干パニックになっていたから、まだその余韻が残っていたのだと思う。
普段ならもう少し聞き取れるはずの言葉が、全然耳に入ってこない。



結局何を助けてほしいのかさっぱりわからなかった。
とりあえず後を追って話を聞きつつ指示を待ってみたのだけれど、どこから来たのかとか夫が何をしているのかとか、あなたは何してるのとか、そういう世間話をして終わってしまった。
そしてアパートの入り口まで見送ると、おじいさんは外へ出てて、車に乗ってどこかへ出かけてしまった。


え、私に何を手伝ってほしかったの??
私は呆然としながら、車で走り出すおじいさんを見送った。



悶々としながら洗濯物をかけ直した後、部屋の前に戻って再びドアの解錠を試みた。





開いた。






今開くの!?なんでよ!
大家さんは急いで向かってくれている。
今は開かないでよ!と思ってしまった。

大家さんに急いで開いたことを伝えつつ、そのまま来てもらえるなら一度ドアロックのチェックをお願いしたいと頼む。
快諾してくれる大家さん。
大家さん、本当に良い人。
洗濯機が壊れたりトイレの水が止まらなくなったり、この10ヶ月でさまざまな「お家のトラブル」があるけれど、ニコニコしながら駆けつけてくれる。
マジ感謝。


そんなわけでソワソワとしながら待っていると、大家さんがやってきた。
工具がいっぱいのケースを片手にニコニコしている。
大家さんは修理とDIYに強く、クマさんのような背格好がたのもしい。

一通りドアの鍵部分から蝶番、ドアについている防災用の装置なども含めて丁寧にチェックしてくれる。
そしてドアの開け閉め、ロック状況やドアの締まり具合も見た結果こう言った。



「特に問題はないね!(スマイルを添えて)」


オイルをさすとかはできるけれど、なにか修理をすべきところはないらしい。
まじか、と思った。

得意のGoogle翻訳アプリを駆使しながら、解錠できなくなる条件が別にあるのではないかと言う話を伝えてみた。
親切な大家さんは、伝えた条件をほぼ全部検証してくれた。
そしてその全てで、問題なく解錠してしまった。



こちらはもう、謝るしかない。
謝っていると大家さんは、こどもに教えるように簡単な英語で開け方を教えてくれ、実際に開けてみるように言ってきた。
やってみた。


3トライ中、2回成功1回失敗という結果になった。


大家さんは「ぼくには指2本でできることだけど、君にはそうじゃないみたいだね」と笑っている。
どうやら私は、ドイツで生活するにはやや非力らしい。
少なくとも、このドアを相手に力で負けているのは確実だ。
日本ではパワー系で生きてきたので(?)、ちょっとすぐには受け入れられなかった。


「Wirklich?」

でも、大家さんの身長は190cmを優に超えている。
そして大家さんは「君はもっと大きくならないといけないね」と、柔らかく出た自分のお腹に目をやりながら笑っていた。


私は日本人女性の平均身長からは結構オーバーしている方で、体重についてもドイツでの食生活の変化から標準と肥満の間を行き来しているくらいなのだけど、それでもこの国では非力らしい。
さすがドイツ、人間の規格が違うようだ。


もし開けられないなら開けやすくなるように調整をすることもできるけれど、それはドアの密閉性やロック機能にダメージを与えることになるという。
借りている身としてはそれは避けたいので、一旦様子見ということになった。

「ドイツ楽しんでる?」「どのくらいいるつもりなの?」みたいなトークをしながら工具を片付けると、大家さんはニコニコしながら「Tschüss!」と言って帰っていった。
私は「Schönen Tag noch!」と見送った。


ここまでの時間およそ2時間。
一旦落ち着こうとコーヒーを飲む。
相変わらず、英語でもドイツ語でも伝えたいことの10%も言えなかった。
焦ったときほどでてこなくなる言葉は、焦るときほど必要であることが多い。

日々の生活は自分にも余裕があるし事前に伝えたいことを準備することもできるのだけれど、こういうトラブルのときはそんな余裕はない。
やっぱり準備しないと伝えられる言葉がないというのは、いいことではないなと思う。
今の関係は大家さんが親切の塊のような人だから、なんとか維持できているのだと強く思った。



あらためて駆けつけてくれたお礼のメッセージを書いて、大家さんに翻訳して送る。
挨拶などのメールの端々に知る限りのドイツ語に書き添える。
大したことではないけれど、大家さんは私がドイツ語を学んでることをとても喜んでくれるので、少しでも何かお返ししたいと思って添えるようにしている。
きっとほとんど自己満足だけど、少しでも喜んでくれたら嬉しい。






そして、ふと思い出した。
おじいさん!!!!
結局私に、何を助けてもらおうとしたの?



話をされてもう3時間以上経っているけれど、ドアベルが鳴ったりすることもない。
というか、車で出ていったおじいさんがまだ帰ってもきていない。
どこへ行ったんだおじいさんよ。

ドアの開閉くらいの手助けをするつもりで「OK!」と言ってしまった手前、ものすごく気になってしまっている。
こういう何も分かってないのにイエスマンっぽく返事しちゃうところ、本当によくないぞ、自分。


いつも挨拶をしたら陽気に返してくれる人のいい方だから、次会ったら急に激怒ということはないと思うけれど(私が英語を理解できてるか怪しいのは見て明らかだろうし……という言い訳)、気のいい方だからこそあまり失礼なことをしたくないという気持ちがある。



洗濯物を入れるような袋に、新聞やらオレンジやらを詰めたものを持って車に乗っていったのは分かっている。



どこへ行ったの?おじいさん。
無事でいてくれ、おじいさん。


※追記※
おじいさんは無事に帰ってきました。笑
そして呼びにはきませんでした。

そのおじいさんは道を歩く夫にも車に乗りながら声を掛けて来るくらい、とにかくフレンドリーな方らしく、夫とも相談の結果、すぐの用件ならその場で指示するだろうし、どこかに行ったきり呼びに来ない以上、今日以降にある何かへのお手伝い要請なのでは?という話になりました。
今度会った時に、得意の翻訳アプリを片手に詳しく話を聞こうと思います💪

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