見出し画像

「好きなことを本気でやろう」と決めた日。

先日、1週間かけて自己分析をした。
その結果、ものすごくエゴイスティックな欲望が丸裸にされた。
「ホントにぃ!?」みたいなちょっと嘘くさい驚きと、「自分やっぱりそうだったかー」という認めざるをえない納得感があった。


そんな結果のほかに、もう一つ「 だと思った 」と納得したことがある。
それは私が本当に、本当に、好きなことしか続けられないという性格だ。
お金がもらえるからとか、名声が得られるからとか、そういうことでは解決できない。自分がそれを好きかどうか、それがなによりも大事なのだ。



私は昔から、徹夜ができない体質だ。
だから学生時代も「カラオケでオール」みたいなことができなくて、仮に行っても途中で寝ていてまともに参加していなかった。
受験やテスト勉強のような、ある程度切羽詰まったときですら、睡眠時間をカットすることはあまりできなかったし、映画や読書のような趣味でも寝ずになにかするということは、これまでの人生でほぼなかった。

そんな私が唯一徹夜をするのが、「 書く 」にまつわることのみ。
この前、自己分析で作った自分史を見る限り、寝る間を惜しんでやっていたことが、全て書くことだったのだ。
仕事とか趣味とかは関係ない。書くことに集中するときだけ、睡眠時間を気にせずやり続けていた。
思えば、書いているときだけ眠気に襲われない。
つまり「 書く 」ということだけが、私にとって眠る時間を削ってでも、なんなら身を削ってでもやりたいことなのだと思う。

多分私は好きと特性が極端に偏っているのだと思う。
そしてこういう人間は、好きなことで生きられるようになるしか、書くことでお金をもらえるようになるしか、うまく生きることができないのかもしれない。


「カッコつけているのなら、すぐに悔い改めるのだ」と言って動き出しそうな、騎士長の石像。
(プラハ・エステート劇場で初演のモーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」。
それを記念し、劇場前にこんなおどろおどろしい石像があります)


こう言うと「なんかカッコつけてるなー」と思う人もいるだろう。
私もこの文章だけ見たら「けっ!」と思う。
友人知人でも突然そんなことを言われたら「本当に?」と思うし、ちょっと心配するかもしれない。


ただ自分がそういう人間なのかもしれないと気づいてしまった今、そんなふうには思えない。粋がるつもりは本当になく、むしろ恐怖しかない。
なぜならこの特性と生き方は、人間として、かなり生きづらいと思うからだ。


もしこれが「医師という仕事が好き」だったら、称賛されて社会にも必要とされる人として迎えられる確率はかなり高い。ほぼ確だ。
エッセンシャルワーカーと呼ばれるお仕事の中に「好き」や「やりがい」を見いだせた人、そこまで思えなくても続けられている人も、社会で生きる人としてとても強いと思う。
そしてそれはとても素晴らしいことだ。

他の業種でも会社という環境で、人との関わりを維持しながら、自分の好き嫌いに関係なく、求められる仕事を責任感を持ってやりとげることができる人、こういう方々にも畏敬の念を抱く。
私は会社勤めの経験もあるので、これがとても大変なことは痛いほどわかる。そして私はうまく続けることができなかったから、とても尊敬する。


「惰性で続けている」とか「踏ん切りがつかないからまだ働いている」とネガティブに言う人がいるけれど、私からしたらその気持ちでも続けられていることがすごい。
感情に関係なく、生きるために必要なことを淡々とできる人だと思うからだ。

私は、職場での人間関係や業務にやたらにストレスを抱えてしまうというのもあるけれど、なにより平日8時間、同じ場所に居続けるということに耐えられなくなってしまう。
実際、上司に相談して作業スペースを変えさせてもらうこともあった。

会社にいることが前提となる今の日本の社会では、これはなかなか厳しい特性だと思う。
だから、そういうことを辛いと思わず働く人全員がすごいと思うし、本当に羨ましく思う。


今は自分で事業を起こすとか、SNSなどで著名人として生きるとか、そういう個で成功する人ばかり注目されがちな世の中だ。
けれど、それ以外の生き方をしている人も十分に素晴らしく、称えられるべきだと思っている。
というより他人がどう言おうと、自分で自分を称え誇っていいと思う。
ちょっとできてる人が割合多くいるからって、称えたり誇ったりするべきじゃないと思うことが多すぎるのだ。

職場という環境でチームプレイができることは才能だと思うし、社会に必要な逸材だと思う。そして、そこに向かって努力する人も同じく素晴らしいことだ。


私の好きな「書く」ということは、インフラや社会のエッセンシャルな部分にあまりつながっていない。
こうやって感じたり考えたことを書く、世界と人を構築して物語を書く。
特に後者が、私の今の生業だ。

10年くらい前は、ニュース記事の執筆を生業にしていたこともあったけれど、今ではめっきりこの二つが軸になっている。
自分が選んだというより結果的にそうなっていることを考えると、これも適性によるものなのかもしれない。

先日プラハで見た、ベートヴェン直筆の楽譜。
この方も好き&できることを貫いた系の人だと思っている


自分の身を削るほど「できること」と、ある程度の適性については、確信に近い感覚は持つことができた。
ただ、ここには大きな問題がある。この生業の脆さだ。


それを特に感じたのは、コロナ禍のときだった。
生きるために必要なものの中にエンターテインメントは含まれず、そこで生きる人達はかなりのダメージを負った。
エンタメの中にも色々な種類があるけれど、いざというとき「 生きるのに必要じゃないもの 」とかなりの割合のエンタメが切り捨てられてしまった。
それを見て「今は不要」と、いつかのための準備に動くことすら許されなくなることに怖さを感じた。

あの状況がかなり特殊だったのは確かだ。
けれど衣食住とエンタメ、どっちが生きるのに必要かと言われたら「衣食住」なのは紛れもない事実。
それを逆にするのは、エンタメ側で生きる人間としても止めたいところだし、そこを覆すのは違うと思っている。
心の栄養の前に、自分の体に安全なお家と栄養、気候に耐えられる服を与えてあげてほしい。

だからこそ、社会に必要とされる仕事をしている人、社会人としてお仕事を続けられる人を心から尊敬しているし、同時に羨ましく思ってしまう。
このままでは生きていけなくなってしまうのではと、何度か衣食住にまつわる仕事をチャレンジしたこともある。
でも、気づけばこの仕事に戻っている。好きとか嫌い以前に、適性がないのだろう。こういうところからも、続けて働ける人たちを尊敬している。


でもどうやら、自分はその生き方はできないようだ。
ならどうするか?
それしか続かないのなら、それを本気でやっていくしかないのではないか。


そう思いたいのではない。
今までの人生を振り返った結果、そう思うしかないのだ。



とてもシンプルな答えだ。
でもずっと覚悟が決まらなくて、斜に構えてみたり、逃げ出したりしてきた。
本気でやって「お前には無理だ」と言われるのは怖いし、「私には無理だった」という自分が思ってしまうのが、なによりも恐怖だからだ。
ずっと地に足がつかない感覚を抱いていたのも、こういうところが原因なのだと思う。多分わかっていた。ただわかりたくなかったのだと思う。

だからその世界で生きているのにその門をくぐってすぐのところにいて、
ときどきくぐって出たり、またくぐって戻ってきたり、ずっと右往左往しているのだと思う。ずっとそんな感覚で生きていた。
それも11年も。あまりに悩み過ぎだ。


こんなに色々できる環境と時間がある今ですら、ずっとなにかの言い訳をつけて逃げていた。臆病者め。ごめんなさい。


この国にいる間は、好きなことに徹底的に時間を使おう。
いいかげん、好きなことを本気でやろう。
今の仕事を太く、強く、もっと増やそう。


私にとって今日は、「好きなことを本気でやろう記念日」だ。

この記事が参加している募集

仕事について話そう

サポートしていただくと、たぶん食べ物の記事が増えます。もぐもぐ。