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【前提】(Kに宛てて)


【原則】

ぼくは「山下峻介でありつづけるようと自らの規範に則り、だが同時に偶然に身を委ねながら、必死に全力で歩き続ける」ことを望むと前に伝えたね。そう、これが最も求めていること/ぼくの目標だ。
まずはこれを出来るだけ説明しておこう。
まずは山下峻介らしい言い回しで原理をお伝えする。
① まっすぐ歩きたい、けれどそれは意外と難しい——山下峻介という多面体は大きなカオスを孕んでいる。
② ぼくは歌を作って歌える——ぼくは自分の作ったものを味わうことに大きな悦びを見出している。つまり、ぼくには創造的自給自足能力が備わっている。
③ 存在はドーナツだ——ドーナツは円周部分しか味わえないように、我々の知覚には実は本質を全く捉えられていないのかもしれない。ゆえに、本物の思考とは常に、思考材料(情報)を疑い続け、手元にない材料を想像/創造することにあるのではないか。
④ みんな違ってみんな駄目——真実とは、人間が生きるために不可欠な誤謬の総体であり、完全に正しいことなどなく、完璧な存在などない。ゆえに、各々が異なった価値基準を持ち、様々に各位で判断をすればいい。ぼくはこうだし、君はこう。それぞれダメなところがある、でもそれでいい。それがいい。
⑤ 不可能な土地へ/ホームランを打とう!(※)——目指すのは自己の陶冶だ、存在の荒野だ。到達のできないところを目指して、荒々しく現実を夢見るように生き抜こう。
※武井壮の『なんでホームランを毎打席打ちたいのに打てないのか? コップの中の水を飲めなかったことは一度もないのに、その違いが分からない』という言葉を受けている。

(補論——記述の前提となる世界観)


⑴あらゆる認識は創造たり得る——認識するとはつまり、裸のままの/ありのままの世界を切り取り、加工するという行為である。
⑵モンティ・ホール問題から導き出せる、知性の役割——思考と言葉を積み重ねる意味は、より我々の行動(「世界や他者への働きかけ」の意で用いている)から求める結果を得るための可能性を高めるという点にある。だから、言葉と思考は行動に繋がらない限りは無意味だが、しかし行動を適切化するのに役立つ。
⑶意志とは、以下の通りに細分化して考察する必要がある。
※ところで「意志」とは広い意味で言えば、『A→B』における「『→』そのもの」、それと「矢印を向ける行為一切」を指す(≒生成変化)。
(個人において)
(ⅰ)自覚的意志:○○は〜したいと思っている
(ⅱ)無意識的意志:ざっくりと言えば、無意識が望むもの。気付いてはいないが、意識裡に望むもの。
(社会において)
(ⅲ)全体意志:みんなの意志をまとめたもの。統計、選挙結果、アンケート調査的。志向の平均値を取ったもの。
(ⅳ)一般意志:(≠全体意志)みんなの無意識的意志、人類が全体として意識裡に望むもの。
(自然において)
(ⅴ)自然の意志:必然や法則(重力など物理法則)、母なる自然の恵、荒ぶる自然の脅威・天災、神、真理、存在、この全てで表される人智を超えた神秘。

これらの原理に基づき、「山下峻介でありつづけるようと自らの規範に則り、だが同時に偶然に身を委ねながら、必死に全力で歩き続ける」という発言の意図を説明させて貰う。

Ⅰ.『山下峻介』とは


常に自由に考えることを望むあり得ない存在だ。人は生きる限り、空間と時間に位置づけられる。だから、ものを考える際、必ず立脚点を持つ。例えば、時代——1985年生まれ、土地——東京在住、愛知県豊田の豪農の次男坊(ぼくの父親はスポーツにも勉学にも優秀な才覚を持ち生まれてきたが故に、身勝手で無反省な特権階級意識/選民意識がある)の長男として生まれた、知能——日本で上位1‰の知能指数がある、外見——偏差値55程度、身長は174cm(ある特殊な文脈における人権は一応あるようだ)、など、ぼくの思考には決まった視点がある。そしてぼくは出来たら、こういうものから自由になりたい。そしてまた、特定の思想——民主主義/人権主義/平和主義/功利主義など現在殆ど絶対的に善とされる/大多数が賛同する、あらゆる理想に縛られたくない。なぜなら、山下峻介はこれまで全てをいったんは肯定し(そう、ぼくも昔は民主主義者だったし、平和主義者だったし、功利主義者だったし、女神崇拝をもしていた)しかし、いつしかそれらのどれとも袂を分かって、今のぼくがある。なぜそれらを拒絶したかと自らに問えば、それはつまり、山下峻介がずっと違うなにかを望んでいた/いるからだ。そしてそのなにかとは、これまで否定してきた多数の他者/概念から空白として——まるでドーナツの穴ように浮かび上がる。その空洞に浮かぶ文言はこうだ。
——『ぼくはいつだって自由に考えていたい、なににも囚われず、自らにも囚われず、軽やかに一切を超えていきたい』——
つまり、『山下峻介で有り続けようとする規範』とは、「なににも縛られないこと」だ。そして同時に、「肉体の軛」と「他者」(そしてそこから派生する「他者の存在」そして「他者との付き合い方」→『他者を育み慈しみ、他者に仕え、だが同時に傷つけ損なうこと』(後述))に配慮した、「自らに課す義務の十全な遂行」もまた、この規範に加えられる。まずこの「自らに課す義務」を詳述しておくと、例えば、誰よりも熱心に働き、限度はあれ自分と関わりを持った人すべてに可能な限り真摯に向き合い言葉を尽くして自分の意見を伝え、出来るだけ人に迷惑をかけない、というごく有り触れた種類の事柄が挙げられる。そしてなぜ「自らに課す義務の十全な遂行」が規範に含まれるかと言えば、『常に、なににも(自らにも)囚われず自由に考え、軽やかに一切を超えていく』ためだ。簡単に纏めれば、権利と義務の関係に当たる。義務を果たすこと無しには自由を行使できない。自由に振る舞うとしても、やはり公共の福祉により、行為には常に制限が生じる。あるいは、以前使った表現を繰り返せば「遊んで汚せる場所を作るために、部屋を整理整頓している」という思考と同じだ。自分が考えていることが、社会的に不適当な発想や結論が多くあることを自覚しているからこそ、驚くほど忠実に熱心に仕事に精を向けるのだ。だからぼくはサービス残業も厭わないし、給与の低さと休日の少なさに不平は言うが、しかし「自由に考えること」の代償として、バランスが取れているとも感じている。多分、不当に給与を得ている実感が生じたらば、自らが不当利得を得ている些かの罪悪感に、社会や現代に阿った発想と思考をしてしまうだろう——思いつくこうした経験の例としては、以前妻がいて一緒に生活していたとき、ぼくは自分が『社会的に』恵まれすぎていると思い、社会を無反省に良いものとして捉えて、今から思えばお花畑な理想を夢見ていた(むろん、これを完全に否定するつもりはないが、やはり今のぼくはこの夢から覚めたことに少なからぬ安堵を覚える、やはりぼくはニーチェのように「真実とは、人間が生きるために不可欠な誤謬の総体である」と言い続けたいし、考えていたいからだ——これも一つの囚われた思考だから、実のところ、ぼくはこれを完全には信頼していない)し、それに彼女からどれだけ不当な扱いを受けていても、ぼくは彼女を無反省に愛していた、まるで泥だまりの柔らかい感覚に少しずつ本来の自己を失っていくみたいに、ぬるい幸福に溶けていきそうだった。しかしぼくは結局のところ、今のぼくを選んだ。なぜなら、ぼくにとって『自由に考えること』が一番価値を持つからだ。だれにも依存したくないし、だれかに依存して貰いたくない(依存されれば、自らを優位者としてみなし、ゆえに優位者としてぼくは思考せざるを得ない)。ぼくはどんな時だって、自らの肉体がどれだけ労働と老いに蝕まれていたとしても、自らの「思考の自由」を持ち続けるためには、どんな犠牲を払うことも厭わない。習慣に固執し、社会から隔絶しているのは、思考の自由の代償だ。そしてこの思考の自由を勝ち取るため、実のところ、ぼくは日々誰とも関わらないように見えているかも知れないが、日々戦っている。誰もが——生徒が、職場の同僚が、電車に乗り合わせた人々が、街行く人々が——、ぼくに様々なメッセージ形態で特定の常識や規範を押しつけてくる(ぼくはこれらの言外の意図——『疚しい良心(※)』——を敏感に感じる力が強い)。例えばノーマスクで電車に乗り込んだときに向けられる視線がこれだ。けれど、ぼくはそれに屈せず『山下峻介』で有り続けようと必死に努力する——ぼくはいわゆる教師らしい行動も発言もしたくない、完全に従順な労働者でもいたくないし、けれど経営者の不満を口にして陰口をたたく輩でいたくもない、マスクを外していたい、文庫本の文字にだけ目を向けていたい。そしてこんなぼくと他者との間に生じる、無言の出来事とも認知されないこの全てがぼくにとっては衝撃的な偶然だ、事件だ! こんな風にぼくは日々シャドーボクシングに勤しんでいる。草陰での陰との見えない戦い。だからぼくにとってそこはあるいは常に砂漠で、これはあるいは一切が砂嵐だ。
ところで、ぼくは自由に考えつづけられている限り、幸福だ、一人痛みに耐えながら飢えと渇きに苦しみながらでも、全くに不幸じゃない、ぼくはぼくだけの貸し切りサウナ/オアシスにいる、あるいは(あるいは、とはいえ、ぼくは大真面目にこう考えている)。
※『疚しい良心』とは、良い/悪いの基準を「悪いもの」を基準に捉える姿勢/あり方。ざっくり言えば、「同調圧力」とほぼ同義だ。例えば、あの人(ら)はマスクを外している、けれどわたし(たち)はマスクをしている。マスクを外すと感染拡大の危険性が増すから、彼らはよくない、なら彼らとは異なるわたしたちは「良い」。このように、疚しい良心を抱える人々は、まずは「悪い」を選定したのちに、「良い」を無反省に決定する。そしてこの結果は大抵、自らが「良い」となる。だが、この「良い」に自発的な意志/選択はない。一方で、ぼくは「なにが良いか」を様々な差異の中から自ら選び取り、なにが「悪い」かをあまり考慮することなく、「これが良いのだ、あとは知らん」と価値基準(「これが良いのだ!」)を定めたい。この両姿勢は殆ど似通ってるように見えるが、微妙なニュアンスを感じ取ってもらえたら幸いだ。ぼくは『疚しい良心』に可能な限り関わらず、むろんそれに決して屈したくない。

Ⅱ.『偶然』とは


ぼくにとって、自分の生を生きることは、初めて読む小説を読むのに等しい。実はぼくは、ぼくという人間が主人公の物語を味わう読者でもある(ぼくは常にぼく自身を全く別個の他者と感じている)。そして以前も伝えたと思うが、物語は始まりと終わりの合間の全が幸福に包まれている。なぜなら、ぼくは物語を——それがどれほど、人から見て孤独で/苦しみに満ち/起伏のないものであれ——心の底から愛しているからだ。多分、これはぼくがぼくという存在のことを愛し過ぎているからだ。つまり、『ハピネス・エンド思想』に依っているのだ。
——ハピネス・エンド(幸福の終わり)思想概要——ふつう物語は、ハッピーエンド/「幸福な終わり」(例:そしてシンデレラは王子様と幸せに暮らしましたとさ)を迎えるための、単なる過程(不運と苦痛と忍耐の混じりの紆余曲折)とされるが、ぼくは物語を味わう間にのみ幸福を感じる(逆に、物語が終わってしまったあと、異様な虚しさと脱力に苛まれる)。ゆえに、物語が終わるとは、幸福な時間が終わることを意味する。
この見方を敷衍して、自らの生を物語と見なす発想を併せれば分かるとおり、ぼくは自分が生きることの全てを心の底から愛している。むかつくことも、いらだたしいことも、やるかたない気分に陥ることもあるけれど、けれど全てを愛し受け容れている。
ゆえに、このぼくという存在が送る生に起こる、不可思議で理解しきれない物事(一切は実は不可思議であり、十全には理解しきれないと考えれば、つまり結局は一切全ての事象)をぼくは受け容れる。この物語のどんなプロットにもどんな薄汚い登場人物だって愛着を感じる。なぜなら、ぼくはこのぼくの人生という物語の大ファンなんだ。クソみたいなあいつも懐かしいし、むろんきみのこともとても気に入っているよ。
そして、ぼくはこの物語のジャンルを知らない。主題も知らない、あらすじだってよく分かってない。むろん、結末も。けれどここに書かれてきた——そしてこれからも書き下される——出来事の全てに愛おしさを感じる(だろう)。そして衝撃的な注釈を入れると、無責任と誹られようが、彷徨い人と笑われようが、ぼくは自分の人生の作者じゃない、全くもって。それに作者になろうとペンを握るつもりも毛頭ない。ぼくはただの主人公であり、傍観者という立場に満足し切っている。なぜなら、偶然に身を委ねることこそ、自らの『自由に考えること』という理念を本当に実現してくれると信じているからだ。比喩的に理由を言えば、風に抗うためにはどこかにしっかり根を下ろさなくてはならないからだ。どこかに根を下ろせば、ぼくはそこに囚われてしまう。偶然は、それがどれほど人から不幸な災厄や間違った出来事に思えても、ぼくが求める幸福/恩寵を受ける手段であり、そしてまた偶然こそが幸福/恩寵そのものであるんだ。

Ⅲ.どうしてぼくは『必死に全力で』 、そして『何処へ向かって』歩き続けているのか


ぼくはこの物語の主人公なのだ。だから必死に全力でこの生を全うする。だれが、腑抜けた老いさらばえゆく弱々しい男の話など聞きたいだろう? ぼくはどこまでも奇天烈で、耐えきれないほど過激で、身の毛のよだつ不気味な主人公でありたい。愛を誰よりも信じると同時に苛烈に颯爽と否定し、あらゆる木々をなぎ倒すほどに莫大な希望と辛辣で鋭利な絶望を同時に抱えながら、誰のものでもない自分だけの夢にのみ向かって生きていたい。つまり厨二病を拗らせているのだ! このどこまで行っても虚構である物語を、しかし現実に生き切りたい。なら、少なくとも自分だけはこの虚構を全力で信じてやるしかないだろう、精根尽きるまでで演じ倒すしかないだろう? ゆえにぼくはいつだって本気でピエロなのだ。気狂いピエロだ! 最も気が狂っていると同時に、しかし、読者としてのぼくは最も醒めている。と同時にやはりその狂ったピエロに素っ頓狂に笑い転げている。ぼくは彼の大ファンで、ご存じの通り、唯一の愛好者だ。でも、誰かが(つまりはここにはあるいはぼくしかいないのだが、ぼくはあるいはぼくじゃない)じっと見ていてくれるのなら、必死に演じるしかない。だから、ぼくは常に全力で生きるのだ!
そしてこんな分裂して倒錯したぼくはどこへ向かおうとしているのか。そんなの分かりきっている。物語の次の行に、次のページに向かうのだ。すると、読者たるぼくは、新しい物語を読むことができる。そうしてまた新しい喜びが生まれる(もっと長いスパンで見れば、ぼくは結局死へと向かっている。だがむろん、終局を迎えぬ物語はない。これは向かうべきところとして最も不適当な/誤った解答だ)。そう、ぼくは読者としてのぼくを楽しませるために、そして主人公/演者としての自分を鼓舞するために、とりあえず今を生きている。そして今は連綿と続いてゆく——ライフ・ゴーズ・オン。そしてショー・マスト・ゴー・オン。ぼくらは幸運にも有り難いことに生まれてしまったのだから、生き続けよう。そして、この物語を自らの一番のお気に入りとして、読み続け演じ切ろう! これがぼくの向かう先だ。最終地点はむろん死だ。しかし、そこに至るまでに経る地点は、進み方は選べる。こうして現実的な存在体としてのぼくは日々、肉体の軛と他者との関わりのものに、染みついた規範とのし掛かる苦役と幾分かの卑近な喜びに満ちた生活を営んでゆく。ぼくはこういう一切がとても愛おしい。そしてこれからもずっと、そう在りたい。だからぼくは全力で山下峻介たろうと自らの衰え行く足でこの『砂漠』を歩み続ける。


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