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6月13日 別居中だった親父が乗ってきたボロ車は、子供ながらにハハ、ハハハハ

自分の一つ一つの行動全てに納得がいくようでなければダメだと、胸に誓ってから数年が経過したが、己の行動のほとんどを認めることが出来ず、風呂の中で大きな声を出したり、枕に顔を深く沈めワアアアアっと大きな声を出すようなことをしている内に25歳になった。

納得がいく行動というのは具体的にはどうゆう事かと言うと、カッコイイ行動ということである。より抽象的になった感じがするかもしれないが、カッコイイというのは具体的でも抽象的でもあるので、どっちの意味でもいけるのだ。

つまりカッコイイ行動というのはどこまで具体的にしても、カッコイイ行動なのだ。

誰にとってカッコイイかと言うと、自分にとってである。
これは美学の話である。

僕は空気を読む。それは幼少期から激烈な家庭環境の中、呼吸をしていたからであろう。吸い込んだ気まずい空気を体内で循環させ、陽気な空気を言葉に変え、二酸化炭素と共に口から吐き出す。正確には、吸い込んだ気まずい空気は自分の中に蓄積したままなのかもしれない。

小学生の頃、隔週くらいの間隔で別居している父親と遊ばなくてはならなかった。なんとなく、この男性のおかげで家族が壊れていくのだなと分かっていたので、会うことに気が進まなかった。とは言っても、僕のことは愛していることが分かっていたし、僕が喜ぶと僕以上に喜んだ表情を見せる彼を見て、「会いたくない」という一言がどうしても出なかったのだ。ママにも来て欲しかったのだが、そんな感じでもないということが分かった。

父親は実家のボロボロの車に乗って、僕を迎えに来た。

これまで我々家族三人で過ごしてた頃は、ファミリカーに乗っていて、それはそれは快適なものだった。それに比べ父親が乗ってきた車は、貧乏そのもの、孤独な男を象徴したような乗り物であり、そのギャップになんだかやられてしまった。助手席に乗ると、日に当てすぎた皮のような独特なニオイがして、僕の不安を煽った。窓を開けようとすると、ボタンがない。親父はこうするんだと、運転席から僕の前に手を伸ばし助手席についている、レバーのようなものをクルクルと回し始めた。すると、窓がグングングンと段階を踏みながら下がっていったのである。父の腕が目前にあった時、父の顔を見るか、開いた窓を見るか、こ見慣れない腕は何だと、そんなことがグルグルと頭の中を回る。

自分の中にある、もう一人の客観的な目線を持った自分と対話を始めてしまうのだ。このもう一人の僕が、年をとるごとに巨大化してきて、20過ぎた頃には、僕の全身と同じサイズになっていたものだから、驚いたものである。

親父がドアを開けた後、僕はワハハ、ワハハ、と天真爛漫風に声を出しながら笑った。もしかすると、面白いと言葉にしたかもしれない。
このようなことを毎日やっていた訳で、日々子供としての役割を全うしていたのである。

それを25歳の今になっても、やっている訳なのである。

そうじゃないと思っても、そうだよね〜〜とかついつい言ってしまうのである。その度、猛烈な自己嫌悪に襲われ、ダサ、ダサ、ダサとなってしまうのである。

最近「そんな自分でもここまで来れました。」「それでも胸はろうぜ!!」みたいな、抱えているコンプレックスに対して開き直った態度を取り、同じ弱さを抱えている人から金を貪り取る卑しい商売を良く見かける。

note などでも良く見かける、安っぽい自己啓発系の文章もその類である。
あれは割と最低だと思う。
カッコイイものはカッコイイし、ダサいものはダサいのだ。
ダサくてもいいじゃん。みたいな事を言われても、は?なのである。

知らない人間に向かって、「君は、頑張らなくていい。」みたいなことを平気で言っている奴は危険視すべきだと思う。
諦めた奴らの言葉に、耳を貸さない方がいい。
ダサくてもカッコ良くいつづけようとする人に僕は救われる。
とは言っても、時に開きなおらなくてはやってらんねえなと、思う時も多々ある。

受け入れた上で、堂々とするのも時には大事なのだ。
まあ、良く分からない。
とにもかくにも、自分の中にある美学を終始貫けるよう日々勝ち続けていれば、何かを憎まずに済むとは思う。何の話をしているのやら。

とにかくピエロ辞めたいっすわ。


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落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。