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先輩の卒論応援にnoteを月間2万字のnoteを書いた

お手伝いしているお店にて、バイトしている先輩が卒論を控えていて「月末までに2万字を書かないといけない」状況だと聞いた。

店員さんとしては彼女の方が先輩ではあるけれど、年齢では私の方が一回りちょい上である。人生の先輩として「2万字はいけるで!」と言いたい。

口だけの大人は信用ならないので、今月はnoteを2万字を書いてみようと思い立った。そして、この投稿を持って達成した。


量をこなすことにも意味がある

私の感覚として月に2万字のnoteを書くことは、月に100kmのランニング練習をするくらいのハードルである。やってやれないことはないが、意識して自分を奮い立たせないとできない。

ランニングガチ勢のマウントおじさんからすると、「100kmはどんな内容だ?」「質を求めないと意味がないよ?」と言うだろう。

でも、週末ランナーにとっては、質がどうあれ月に100km走ること自体が大儀なことである。きっと文章を書くことも同じだろう。

新入りのプログラマーが言う「配属されて2万行はコードを書いた」にも通じる。ベテランが同じ処理を書けば、無駄が無いため半分のコードで簡潔に書けることもある。

だけど、無駄のないコードを書くには、コードを書く経験を積むことが必要。読書の速度を上げるには、読書によってその分野に慣れるしかない。同じく、無駄のない文章を書くには、文章を書くしかない。

内容はどうあれ2万字を書ききることはそれなりに尊い。それには意味がある。

フィードバックがあると上達する

卒論とnoteを一緒にすな!というご指摘はあるだろう。対象分野も、求められるお堅さも、論述と感想の違いもある。相違点を挙げればきりがない。

文章を書く体験として、最も大きな違いだと私が感じるのは、フィードバックの有無である。卒論では指導教員から真っ赤に添削された記憶がある。

攻略本として「理科系の作文技術」なんかは読んで挑む。知識として知っていることと、習慣としてできることの間には隔たりがある。やはり真っ赤に添削される。

ほぼ書き直しになるのはけっこうキツイ。その代償として、フィードバックを受けて反省して書き直すことにより文章力は上がる。

振り返って思う。その分野で一流の先生が自分の文章を添削してくれるなんて、卒論や修論は物凄く贅沢な訓練だった。

私自身、当時の専門性(システム数理)を活かして生きてはいないけれど、2万字/月がこなせるくらいには文章力が付いた。

読む力は書く力に先立つ

今月2万字を書いた私に「好き勝手に書いて自己満足しているだけ」というご指摘があれば「まったくその通り」だろう。そこそこ大人になると、わざわざ読んで、真っ赤になるまで添削してもらえる機会は少なくなる。

noteで通りすがりの人から「カタカナ言葉が多い割に内容が無い」と酷評されたことはある。「内容が無い」ことを証明するには最後まで読まねばならないので、少なくとも読ませる文章力はあったと受け止めた。意外と今この瞬間も安易にカタカナ言葉を使わないよう配慮しているので、ご指摘は役立っている。

たまにいただくフィードバックを除けば、今現在、私の文章を一番厳しく読んでいるのは、私自身だろう。なぜなら、真っ赤になるまで添削が必要な文章であれば、他人はわざわざ読まない選択肢をとるため。

自分の目が厳しすぎると、投稿ボタンを押すのを躊躇してしまい、いつまで経っても文章が書けない。一方で、ある程度は厳しく読んでフィードバックをかけないと、何万字を書いたところで文章力は上がらない。

耳が良いことでズレに気付いて、歌が上手くなるような話。または、観る力があることで違いに気付いて、デッサンが上達するような話。一般化すると、アウトプットの精度はインプットの精度を超えられない。

文書を読む力により未熟さに気付くことで、良い文章が書けるようになる。そのために、量を書くことと両輪で、良い文章を読んで自分とのギャップを知ることも必要なんだなと改めて気付いた。

私が読みたくなる文章を書いている

私自身が何を「良い文章」として2万字を書いたのか自問自答すると、「私自身が離脱せずに最後まで読めること」になる。

その難しさは周囲の環境によっても変わる。ショート動画を始め、興味を惹くコンテンツは身の周りに吐いて捨てる溢れる今、離脱せずに長文を読ませることは昔よりはるかに難しい。

私のような仮想読者がいたとして、ショート動画よりも読みたくなるような文章を書けているだろうか。努力はしているが自信はない。それでも書いてみるしかない。

面白い文章を要素分解する

ショート動画よりも読みたくなる文章がどのようなものか。言い換えると「面白い文章」ということになるだろう。

面白い文章づくりやを要素分解すると、1. 発想 → 2.作文 → 3.発信になるだろう。これは仮想敵であるショート動画に関して「動画大全」の中で書かれていた、1.調達 → 2加工 → 3.流通になぞらえた。

書籍の中で「2.加工」のスキルは重要でなくなることが予想されていた。動画編集のツールが溢れて、スマホだけで手軽にできる。文章に関しても、生成AIが作文もこなすことを思うと、同じ傾向はあるだろう。

真っ赤になるまで添削されて身に付くのも「2.」のスキルではある。だけど、そこは技術によって差が付かないようになる可能性も高い。

ネタの面白さと伝える上手さ

関連して、漫才が「ネタの面白さ」と「しゃべりの上手さ」に分解されていたことを思い出す。

当初のM-1が結成10年を課していた意味として、経験を積みすぎるとイマイチなネタでも面白く話せてしまい、後者の競争に偏ってしまうことがある。誰でも続けていればそこそこ伸びる。原石の段階で目利きすることで、才能がないのに時間を投資してしまう不幸を避ける意図もあったとか。

文章で言えば「ネタの面白さ」と「伝える上手さ」の分解であると言い替えられる。少なくとも私のnoteは、そこまでシビアに人生を賭けたものではないけれど、便宜的に考えてみる。

前者の「ネタの面白さ」は、人間力のような捉えどころがない抽象的なものだろうか。後天的に鍛えられるとすれば、「アイデアのつくり方」や発想法みたいなものかもしれない。

日頃からアンテナを張って、意外な事実に気付いて蓄え、ストックしたものと掛け合わせてネタを考えるような習慣によって、面白いネタを生み出すという話。

「アイデアは既存の要素の新しい組み合わせ」という言葉はあまりに有名だろう。

ネタの面白さは論文にも必要?

論文や特許の文章に関しては、読んで面白いことよりも、他の意味で解釈されないことのほうが重要とされる。読んでいてクスッとなる意味の面白さは求められない。

だとすれば、この投稿に込めた「文章を書くこと」についての文章は的外れだろうか?私はそう思わない。

確かに、論文の方が求める厳密さは高いけれど、研究の着想として「ネタの面白さ」みたいなものは確実にある。ただ、学部の卒業論文ではその段階まで至らない。

学士さんは、先生の敷いたレールに沿って研究を進めて、卒業論文を書く。
修士さんは、先生が示した方向に向けてレールを自分で敷いて、修士論文を書く。
博士さんは、自分で行き先を決めるところから始めて、博士論文を書く。

だんだんと「ネタの面白さ」を自分で探す方向へとシフトする。その入口だけをなぞるのが卒論だと捉えられる。

「てにをは」のミスが目に付くと、論理的な正しさまで読んでもらえない。論理が破綻していると、文章の構成まで読んでもらえない。極力まで読みにくさを取り去ることで、ようやく「ネタの面白さ」を読み取っていただけるようなところはある。

そちらの世界には進まなかったけれど、俗的な社会でも一定の文章力を持つことは前提にされる。私は2万字を書いた。こちら側で待っている。



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