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おろおろ映画日記②「ゾンビのことを想うと夜も眠れない」

ゾンビ映画について

休日前夜はゾンビ映画を見る。連勤からの解放感が、疲れ切った魂を蘇生へと導く気がする。そんな気持ちとゾンビ映画はなんとなく親和性が高い。何かが腐り朽ちることについて考えるスペースが脳内に生まれるからだろうか。

灼熱の大地の上に陽炎がゆらゆら揺れて、その揺れ幅に呼応するようにふらふらと彷徨っている何かがいる。遠目からではそれがゾンビなのか、それとも瀕死の縁を彷徨う人間なのかわからない。安息地を求めるロードムービーと化したゾンビ映画でよくあるシーンだ。肌寒い墓地を突き破る腐った手は、演出としては既に古典の域に到達していることをふと思う。舞台設定、大体夏場だな、と呑気に思ったりする。大体において政府や軍による封じ込め作戦は既に失敗に終わっていて、ゾンビは大通りに溢れ、空港や駅に殺到するのは有象無象の感染者と非感染者である。
ショッピングモールにはまだ幸運なことに薬剤と食糧と物資がたくさんある。だが陳列棚の隙間を埋めるように危険もまたたくさんある。生き続けるためには危険を冒してでも、物資を調達しなければならない。慎重になれ、6時の方向に注意しろ、真後ろのことだマヌケ!と画面に向かって囁いても次の瞬間に彼あるいは彼女は灰色の手に掴まれている。

エンタメの常としてゾンビは非人道的な暴力を加えられる。かつてそういう表現についてドイツで裁判があったこともある。しかし判決はこうだ。脱人格化されたゾンビは人間ではない。
人間でないものに噛まれ、脱人格化されるのはたまったものではない。理解できない存在は我々に耐え難い恐怖をもたらす。だから登場人物はゾンビを徹底的に排除する。登場人物たちは一様に金属バットを振り、練習もそこそこに拳銃を無駄撃ちしてしまう。頭を狙えとこちらは言うのに、少女はナイフで心臓を刺す。肌の露出は危険だからと再三言っているのに、ビキニとホットパンツの格好やタンクトップに薄い生地の短パンときたものだ。次のシーンではたわわな乳房も肉塊と化す。とても残念に思う。ゾンビよりも日射病の方が怖いもんな。タフで屈強でやさぐれた軍人はゾンビの群衆に単身突っ込むし、コメディリリーフはなぜか最後まで死なない。だが続編には登場しない。

そうして出来上がった世界の終わり。驚くべきことにと言うべきか、当然の流れと言うべきかそんな世界でも人々は生きている。世界終末時計の針が日を跨いだそんな世界では、特にかつてのキリスト教圏では、土葬がまだ主流なのだろうかとどうでもいいことを考えてしまう。

生存者グループは焚火を囲んで、世界が元に戻ったら一番にしたいことを語り合う。
あるいは一人だけで生きていく者もいる。君ももしそんな世界を生きるとするのなら、『ゾンビランド』のジェシー・アイゼンバーグみたいに荒野を生き抜くためのルールを守り続けるといい。あるいは『アイ・アム・レジェンド』のウィル・スミスを真似て、摩天楼に向かってゴルフショット。寂しくなったらマネキンに話しかけてみるのもいい。何か自分の人間としての核みたいなものをなるだけ維持するのだ。
『ウォーキング・デッド』を見て、結局いちばん恐ろしいのは人間なのだなと嘆くのもいい。ゾンビという恐怖が身近に無数に存在すると分かった時、どうしてだか人間はそれを凌駕するがごとく、恐ろしく、たまに醜い行為を犯すことがある。理解できないことも怖いが、理解できる行為もまた同じくらい恐ろしい。

ゾンビの拡がり/死とは


そもそもゾンビがどうして世界に蔓延ったのだろうか?
癌の特効薬だと思ったのに、とか(『アイ・アム・レジェンド』)。麻薬がとんでもないことになって、とか(『iゾンビ』)。未知のウイルスの蔓延だったり(『ワールドウォーZ』)。あるいは大企業の世界規模の策略であったり(『バイオハザード』)。目覚めたらそこは既に地獄で、原因が分からずじまいだったり(『ウォーキングデッド』)。


人の死とは、脳幹を含む全脳の不可逆的機能喪失、すなわち脳死をもって定義される。いわば蘇生不能の状態だ。そんな蘇生不能の状態からなぜか身体が動き出す。一対の窪んだ、焦点の合わない目がぎょろりとこちらを向き、歯をカスタネットみたいにカチカチ鳴らす。
あぁもう、どうしてゾンビの感染は拡がるのだろう?
ウイルスは自己を宿主の中で複製するためのコードを持っている。増えることそれ自体が目的なのだ。ウイルスは宿主の脳みそを乗っ取って、次の宿主を見つけさせる。これによりゾンビは誰彼構わず噛みつき、ゾンビウイルスに感染させていく。ゾンビの食人設定はJ・ロメロ監督による後付けである。吸血鬼の要素を取り入れたというわけだ。『鬼滅の刃』でも『甲鉄城のカバネリ』も噛まれたら終わり。(鬼≒カバネ≒ゾンビと捉えても構わないだろう。)

なぜ人を噛むのだろう?
脳みそがグジュグジュに溶けて、食欲や生殖本能や生者との関わりを求める機能が混濁しているからだろうか?
それなら対物性愛の患者はゾンビになったら、やっぱり愛していた車でも齧るだろうか?

だし巻き卵から白身と黄身をいまさら分離できないように、ゾンビの脳から理性や知性や人間性のみを切り分けることなどもう不可能だろう。


ゾンビ側に立つ人間/心の在処

心の在処を真剣に考えてみたことがある。心とはどこに存在するか。胸に宿る?脳みそに在る?宗教的・哲学的・医学的・科学的な観点から様々思考してみた結果、それは自分と他者・環境との間に横たわるシステムなのだととりあえずのところ考えてみた。


脳死が常に客観性を持って決断されるのなら、心については(すなわち心を持つという状態が生きていることとほとんど同義であるとするのならば)身勝手な主観的判断を貫かせてもらおう。我々人間は心に触れているというときに、生きていると実感できるものなのだ。たぶん。ウルキオラもそう言ってたはず(『BLEACH』

「あいつはまだ生きている」「親友だ」と言うなら、納屋に閉じ込めてコントローラー握らせて時々一緒にテレビゲームでもすればいい。君はサイモンペッグで、あいつはニックフロストだ(『ショーン・オブ・ザ・デッド』

だし巻き卵みたいに黄身も白身も変性し、混濁してしまった意識の中からゾンビたちが手を伸ばしてつかもうとしたものが、もしも心だとしたら…。

心を求めるということはつまり、誰かと本質的につながるということなのか。誰か(それは他人でも内なる自分自身でも)とつながるということが、ゾンビというパンドラの箱の底に残された最後の希望であり、人間の絶対的本質なのだとしたら、寂しさの渦中にいる僕は夜も眠れない。


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