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離職・転職・出戻りを当たり前とし、人を縛り付けない組織開発

人を組織に縛り付けようとすることは、支配しようとすることと同義でしょう。一方で、合理的な資本主義経済の下では、人はより有利な組織へと自発的に移動していきます。そこで組織は、せっかく集まってくれた人々の心を一つにすることで繋ぎとめようとします。例えば、単純な比較によるデメリットを強調したり、終身雇用を前提とした愛社精神を強要したり。そして現在は、働きがい、働きやすさ、自己実現などを、パーパスやビジョンといった言葉で絡み取った、多様性という一体感を求めるようになったのかもしれません。

原則として、資本主義における組織とは、労働者と対峙する存在です。しかも、合理に基づく労働では、効率が何よりも優先されます。そのため、手を抜けるところはとことん手を抜き、最低限度の品質・サービスで善しとするような風潮が蔓延してしまいます。そんなメンバーに豆を撒いても、鬼門は塞がりません。そこで、組織を自身と同一視できる存在にしようとする動きが現れます。ロゴを創ったり、パーパスやビジョンを言語化したりすることは、オフィスとして物理的な存在を示すことを超えた組織の視認化を図っているとも見て取れます。つまり、本来、資本主義では、組織は対立構造として存在要件を持つものとして捉えるものです。しかし現在は、企業文化あるいはコーポレイト・アイデンティティなどによって同一視すること、すなわち協働による発展を目指すことで存在要件を満たそうとしているようにも見受けられます。

ここで協働とは、ブレンドという言葉がしっくりくるように感じます。異なるものが溶け合って、新しい一つのものを創るというニュアンスです。ダイバーシティやインクルージョンといった表現には、近代ヨーロッパ思想(個人主義)の匂いがあり、少ししっくりこない感じがします。その意味で、一方的に自己の権利のみを主張をする行為は、協働を拒む姿勢とみなされるでしょう。かといって、ただ従順に従うだけでは、それも協働とは言えないでしょう。

組織の視認化は、必ずしも自己の視認化を前提にしないと思います。目標は組織から与えられるものだとしても、そこに至るプロセスは自主裁量である。あるいは、プロセスも上司の指示に従うが、その方法論は自身の強みを発揮した方法で行う。おそらく協働の姿とは、個々人が、仕事のどこかに自分らしさを保持し、そして組織目標の達成に向かう姿と捉えることが相応しいように思います。

論理、原理(経験)、技術を重視することは、争いの火種を造ることになるでしょう。なぜなら、これらは手段であって目的ではないからです。一方で文化は、保護を生みます。なぜなら文化は、自己を主張し、他者を受け入れるものだからです。ここから組織開発とは、組織文化力を高める活動と言えるかもしれません。

組織は、社会から自分たちを守ってくれる存在ではなく、社会そのものと一体的な存在へと転換しているように思われます。

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