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「謝りすぎる日本人像」は本当?

先日、ある留学生から相談を受けました。
「来週、就職の面接を受ける予定ですが、面接が心配です。面接の練習に付き合ってくれませんか?」
たしかに日本語母語話者でも就職がかかった面接は緊張もするし、必ずしも全員が上手にこなせるものではありません。
私は快諾し、その週の金曜日の授業前である午後1時に会う約束をしてその日は別れました。

当日になりました。
私はデスクで仕事をしながら、学生が来るのを待っていました。
1時になり、1時20分になりました。
学生は来ません。どうしたのでしょうか。
いったんその学生との約束は忘れ、私は別の仕事を始めました。

それからまた10分ほど経ったころ、
教職員室にその学生がやってきました。
とりあえず事故などではなかったようでよかったと思いつつ、その学生を連れて面接練習用に確保しておいたスペースへ移動しました。

結果的には予定の時間より30分ほど遅れて到着したので、
一応、というくらいの感覚で学生に尋ねました。

「今日はどうして遅くなったんですか?」

学生は答えました。

「実は自転車が壊れてしまって、途中から歩いてきたんです」

ここで、いち日本語母語話者の一般的な感覚としてはこう思えてきます。
「開口一番に言い訳?」
「しかも、謝罪の言葉はまだ一言もない…」

しかし、ここで「やっぱり外国人は謝らないんだ」と思う前に、ぜひ知っておいてほしいことがあります。
それは、「謝罪」という行動自体の位置づけが、また言語や文化によって異なるということです。

例えば、「謝罪」がすぐに「自分の非を認める」ことにつながる国や文化もあります。
先ほど例に挙げたケースでも、もしこの学生の言う通り電車が遅延して私との約束に遅れたなら、彼自身の行動に非はありません。ここで謝ってしまうと、自分が悪かった、非を認めなければならないことになります。

一方で日本語はそうではありません。
「謝罪」というのは、「自分に非や責任があるかどうかはさておき、あなたが迷惑をこうむったことを私は認識しています」というサインなのです。
この場合、先ほどの例では謝罪が必要になります。
遅刻の原因が彼自身にあろうとなかろうと、私は待ったわけで、待つために犠牲にした時間があるからです。

このように、「謝罪」をするかしないかはその人の人柄や性格によるものだけではなく、生まれ育った言語文化に大きく依存しているのです。

このことは、もちろん反対に作用することもあります。
日本人が「外国人は謝らない」と感じるということは、
外国人は「日本人は謝りすぎだ」と感じることも当然起きます。

最近、また別の留学生からこんな話を聞きました。
彼女はコンビニでアルバイトしていて、アルバイト仲間からシフトを変わってほしいときに何度も「本当にごめん!」と言われるのがつらいんだと話しました。
それを聞いてすぐは、彼女がどこにつらさを感じているのかつかめませんでしたが、
もう少し話を聞いて合点がいきました。
「本当にごめん!」と謝られると、まだこの人は私のことを友達として認識していないんだ…と突き付けられた気持ちになるのだそうです。
彼女にとって「謝罪」とはかなり大きな過失があったときに使うもので、ましてや友達には使わないため、
自分に「謝罪」を向けられるというのがつまり「この人は自分のことを友達だと思っていないので、謝罪が必要だと感じるんだ」と思うのだそうです。

おそらく、シフトを変わってほしい友達はそんなつもりは一切ないでしょう。
しかし「謝罪」の位置づけが違うだけで、ここまでのすれ違いが生まれてしまうんです。

そしてもちろんこのようなことは、「謝罪」以外の行動にも起こります。
頼みごとをする、ほめる、食事に誘う、断る…など、日常の中のさまざまなコミュニケーションにこのようなリスクが潜んでいます。

「文化が違う」と一口に言っても、衣服や食べ物、気候のように明確なものから、
このような目に見えない、見えないどころか気づくこともないようなところに文化の違いは潜んでいます。

「これって文化の違いなのかも?」と常に思いながらコミュニケーションするのは、率直に言って疲れてしまうこともあります。
頭より先に、怒ったり困ったりしてしまうことも、私も毎日のようにあります。
ですが、この視点は他の文化出身の人たちと接する身として、持っておかなければならないものだなとも思うのです。


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