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恋愛映画としての『ミッドサマー』 〜わたしたちの恋愛は瀕死〜

『ミッドサマー』には、わたしたちの常識にショックを与えるように意図された箇所がいくつか見られる。舞台設定に論理的な一貫性が見られるところから、製作者の捉えた一般的な倫理観からの逸脱を表現することが、製作者の意図なのではないかと推測できる(主人公の彼氏の名前はクリスチャン笑※1)。もちろん、それは演出として、物語にリアリティを与えることに一役買っている。
舞台となったスウェーデンの村は、独自の倫理によって支配されている。わたしたちの社会が採用している司法では、刑罰は罪を犯す人間を待っている。しかし、その村では、人々が罪を犯さないように予め配慮され、その芽を摘み取っている(村人たちの植物への、とりわけ美しく咲く花に対する強い志向は、彼らが何から自分たちの生活の知恵を学んでいるのかを、よく表現している)。それは、物質的必要性というよりは、精神的必要性から来るものである。彼らは、誰かが他の誰かよりも先んじようとするその意思を警戒している。それゆえ、彼らの死は、共同体の安定を保つものとして、全体的な意思に委ねられているのである。そこでは、自殺も殺人も、ある閉じたシステムのサイクルの中で行われている。彼らの死はかつてあった死であり、またこれからもあるであろう死なのである。死のみならず、生殖もまた、偶然から必然へと変えられて、サイクルの円運動に組み込まれる。主人公の一行と、彼らに感性を投影する観客たちは、閉鎖された村の中に空間的に閉じ込められるだけではなく、過去も未来もない循環する時間の中にも閉じ込められてしまうのだ。
作中、ほとんどいつでもどこにでも、薬が登場する。主人公の暮らす現代的な社会でも、彼女の訪れる伝統的な村でも、事あるごとに薬が要請される(あたかも、薬=生理が、両者の社会を繋ぐ架け橋のようだ)。それにより、相互意識間における苦悩と葛藤は、近代文化の最大の深淵の一つである弁証法を経ることはなく、唯物的な生理に還元されてしまう。そして、その後に登場するのは、必ず暴力と医療用のメスなのだ。
現代文化の自己嫌悪がよく出ている映画だと言えるかもしれない。わたしたちが、嫌悪感を持ってその映画を観るとき、わたしたちは、自分たちの文化の気味の悪さを内省させられるのである。
監督は、映画『楢山節考』を参照したというが、同映画が極限状況における苦悩と葛藤が軸となる愛の物語だったのに対し、『ミッドサマー』はシステムの内部における抑圧と分裂が軸となる精神病の物語になっている。
しかし、それらのことは、『ミッドサマー』においては、サイドストーリーに過ぎない。この映画は現代社会を批判的に風刺したものではないし、もちろん文化人類学や比較文化論的なものでもない。舞台となった村は、わたしたちの社会から空想されたものであるという意味で、わたしたちの社会の一部である。
この映画の基本的なプロットが、恋愛映画のそれであることに異議を唱える人は少ないだろう。付き合い始めて四年、関係に行き詰まりを感じている二人の男女が経験する別れが、作品全体を貫くプロットである。監督のアリ・アスターもまた、この作品の着想を自身の失恋の経験から得たものであることを語っている。

「実は当初、あまり企画に乗り気ではありませんでした。テーマに既視感があり、魅力的ではなかったからです。しかし、同じタイミングで私が失恋をしていて、打診されたテーマに実体験を反映した、失恋物語が作れるのではないかと閃きました」

『ミッドサマー』は、失恋を描いた映画であり、またそれは「わたしたちの失恋」であると言える。本作は、現代における契機としての「恋愛」の危機を告げているのだ。「わたしたちの恋愛は瀕死(※2)」である、と。
本作は、ホラー映画であるよりは、むしろ『勝手にしやがれ(58年)』や、『ボーイミーツガール(84年)』などの恋愛映画の系譜上にあるものだと思う。それらの映画を見たことがある人ならば、昨年制作された本作における「わたしたちの恋愛」が、いかに危機に瀕しているかが分かるだろう。
主人公とその恋人が経験するすれ違いは抽象化されている。作中において、彼らのすれ違いには中身がない。要するに、彼らがすれ違いを起こす理由としてのあれこれの事情は描かれていないのである(※3)。彼らは、どこにでもいそうな二人の男女として、誰でも経験しそうなカップルの破局の危機を体現している。お決まりの慰め文句、定型化された抱擁、誕生日を忘れたり、それを誤魔化したり、、。そこにあるのは、現代社会が許容し、奨励する恋愛の在り方、そしてその終わり方の典型例である。
主人公は精神的に恋人に依存しようとしているが、それが上手くいかないときには安定剤を摂取する。ここでは、恋人の役割は精神医療と同義である。薬の量を増やしすぎないために、彼女には恋人が必要なのだ。
主人公にとって、恋人とは、互いに互いを映し出すもの、要するに自分が何者なのか、そのアイデンティティを保証するものとして存在しているに過ぎないように見える。現代社会においては、一般的に、家族の喪失による恋人のアイデンティティの欠落は、当然の義務としてその相手が保証するのである。しかし、その恋人とは、単に関数であり、偶然に委ねられた恣意的な存在に過ぎない。それゆえに、わたしたちの恋愛は瀕死なのである。

「『ミッドサマー』には人が犠牲になる隠喩が出てくるんだけど、それは共依存や失敗した恋愛、常に犠牲を必要とする人間関係など、僕が語りたいと思っていることにピッタリだったんだ」

監督が語る通り、作中におけるスプラッターの要素は、失恋において主体が体験する精神現象の譬喩である。失恋をした主体は、対象の喪失からその修復までの間に、否定とさらにその否定を経る一筋の物語を体験する。それは、受け入れ難いものを拒絶しながら、古い何かを削除する行為として描かれるのである。
物語は、現代的な社会からスウェーデンの山奥に残る伝統的な集落へと横断する。その転換点に当たるシーンで、主人公の一行は、白夜を体験する。夜のない/昼しかない一日。かつて、ミシェル・フーコーは自身の著作において、理性と狂気の関係を昼と夜に喩えた(※4)。その意味は、光り輝く栄光の理性と、暗闇に沈む忌むべきものの狂気、ということではない。昼と夜の関係は、一方が別の一方を規定する関係。すなわち、相互意識間における優位/劣位の関係、あるいは、食う/食われるの関係の譬喩なのである。それが、フーコーが指摘した西洋文化の特性、翻っては、現代社会全体を貫く精神の危機を裏打ちしているものなのだ。
昼と夜の二項対立が支配する社会、自分以外の誰かによって映し出してもらわなければ、決して何者にもなれない鏡の国、そこから一転し、舞台は、昼と夜が共存する真っ白な世界へと移り変わるのである。そこでは、決して割れることのない不動の鏡が、人々の姿を映し出し続けている。
物語は、夜が来るたびにその闇を白く塗り潰していく。すなわち、誰かが誰かであるために他の誰かがその誰かになれないような ー 現代的な社会の ー わたしたちが見慣れたような社会の ー 要素は、真っ白な社会から排除されていくのである。

しかし、果たしてそれにより、「わたしたちの恋愛」は、瀕死状態から抜け出すことが出来たのだろうか?すべてが均され、必要とあれば間引きされ、あらゆる関係性が全体とのパースペクティブを測ることによって成り立っている社会で?
結論から言えば、主人公の心は、最初から最後まで一貫して孤独である。
主人公は物語の最後に、恋人の死を選択する。家族の死、恋人の死、自分を知る人たちの暮らす社会から遠く離れ、もはや彼女は何者でもなくなった。祝祭によってメイ・クイーンに選ばれ、色とりどりの花に飾られた彼女は、しかし、自分の姿を見ていない。彼女が見つめるのは喪失によって空いた虚無の穴であって、新しい自分ではない。
彼女は、いずれ喪失したものの代用品として、共同体の人々を見出すかもしれない。しかし、やはりそれはあくまでも代用品であり、穴が塞がることではないのである。
喪失とその代理が入れ替わるバトンリレーのような恋愛において、彼女は自分を回復する術を知らないように見える。彼女の恋愛は瀕死のままだ。
否定されたものは止揚されず、喪失されたものは回復できず、人々の笑顔は悲劇を抑圧したままで、、、。

では、どうすれば良いのか?わたしたちの恋愛が健康を取り戻すためのどのような方法があるのだろうか?さしあたり、その問いに対する答えは、『ミッドサマー』の中にはない。だから、これは失恋の物語であり、単にそのカルカチュアとしての悲劇/喜劇でしかないのである。

本作が「トラウマ映画」と呼ばれるのはどこか皮肉めいていて、それというのも、単に無意識を循環してどこにも連れて行かず、傷だけを開示するからである。その"トラウマ"は、映画を観る前から、わたしたちの中にあったのである。

※1彼の最期は、キリストのそれと重なるように見ようと思えば見えなくもない。
※2川上未映子『あなたたちの恋愛は瀕死』...現代的な「性」を志向する抽象化された「女」による内省的で悲劇/喜劇的な出会いの物語。「女」は見知らぬ「男」との性行を志向し、声をかけるが、顔面を殴打され、意識を失う。『ミッドサマー』においても、「意識の在り処」と目される顔面を叩き潰す印象的なシーンがある。「顔」の持つ意味は、両作において共通しているように思える。
※3冒頭の主人公の家族の自殺もまた同様に、事情は何一つ描かれていない。あたかも、自殺はありふれた茶飯事だと言われているようだが、これも譬喩である。恋愛において、家族の喪失は、恋人との関係を進める契機なのである。但し、本作では、そこに至るまでは描かれていない。
※4ミシェル・フーコー『狂気の歴史』1961 L'Histoire de la folie à l'âge classique

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