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狂言『萩大名』と俳諧連歌

【スキ御礼】狂言『萩大名』の大名が詠んだ「萩」

狂言『萩大名』(あらすじは「狂言『萩大名』の大名が詠んだ「萩」」参照)に出てくる遠国の大名は、大名と言っても戦国時代のような武将ではなく、室町時代のそれは地域の地主程度の身分だったようです。
だから都へ出て来て、急に和歌を詠めと言われても、もともと素養もなかったのでしょう。
萩の庭の亭主とのやりとりでも、大名は無粋な事ばかり言って、お付きの太郎冠者にはその都度たしなめられて、最後には相手にもされなくなってしまいます。
そんな大名は、和歌を詠むセンスはなかったけれども、庭の亭主に言った「無粋な事」には俳諧連歌のような俳諧味が溢れています。

まずは、室町時代の俳諧連歌が成立するまでの流れを、和歌、連歌とを比較しながら専門書で確認してみます。

平安時代の末頃から、連歌は単に二句で終るのではなく、長くつづける長連歌が行われだしました。歌人たちは和歌の傍らにこれを好み、和歌的情趣を以てこれを磨き上げ、やがてこれが連歌の主体となりました。
一方、平安時代から育ってきた機知的な連歌は、主として地下じげの人達によって嗜まれていたようです。

『新潮日本古典集成 竹馬狂吟集 新撰犬筑波集』新潮社2020年

『菟玖波集』は文和五年(1356年)二条良基が花の下連歌師救済ぐさいとともに撰した最初の連歌集で準勅撰集です。その中で始めて「俳諧」の語が連歌の分類名として用いられました。連歌を好んだ良基はそれまで歌人の慰みにすぎなかったのを和歌に並ぶ文学に高めようとしました。

同上

室町時代に入ると、宗祇によって第二の連歌集『新撰菟玖波集』が明応四年(1495年)に撰せられます。
それに呼応して、その四年後に俳諧連歌の集である『竹馬狂吟集』が、その約五十年後に『新撰犬菟玖波集』がまとめられています。
つまり、室町時代には連歌が高い文学性を持つようになり、それまで連歌の一分類であった「俳諧」が連歌から独立して「俳諧連歌」という分類ができたということになります。

その「俳諧連歌」の撰集である『竹馬狂吟集』について、次のように評されています。

『竹馬狂吟集』は掛詞による意外性の面白さと共に、世俗化が特に強く、その中で、仏や僧、古典の有名人等、或いは風雅さといったものを好んで下落させる面白味をねらい、総じて表現が具体的で叙事的で明るい哄笑性がみられます。これはおおらかな室町心の発露とも言えましょうし、室町という変革の時代の民衆エネルギーの現われとも考えられましょう。このようにして文学もまた貴族の世界から庶民の世界へと転じ始めることになるわけです。

『新潮日本古典集成 竹馬狂吟集 新撰犬筑波集』新潮社2020年
太字は筆者

狂言『萩大名』の面白さも、「風雅さを好んで下落させる面白味をねらっている」、という点では俳諧連歌と共通であるように思えます。

では、具体的に『萩大名』の大名が発する無粋な発言を見てみましょう。
①庭の白砂を有名な豊後砂と教わって、「さながら道明寺干飯を見る様」という。
②庭石を山の石だと教わって、「握り拳ほどのところを打ち欠いて火打ち石にしたらよかろう」という。
③庭の枝の出ている木を白梅だと教わって、「引き切って茶臼の引木にしよう」という。
④庭の木の紅い花を宮城野の萩だと教わって、「あの赤い花がこの白い砂の上へぱっと散ったところが、さながら赤飯を見る様な」という。

この太郎冠者または亭主と大名との話の掛け合いが、俳諧連歌の掛け合いとよく似ているのです。

「萩大名」の話の掛け合い①~④が、どれだけ「俳諧連歌」に通じるものがあるか、試みに俳諧連歌風に仕立ててみました。
実際の俳諧連歌を先に例に挙げますので、比較してご覧ください。

すいすい風の荻に吹く声
鳴く虫もむか歯や抜けて弱るらん

スウスウと上風が荻を吹き渡っている声が聞える。
ーー鳴く虫も、秋が深まり前歯が抜けて弱ってきたのだろう。スウスウと空気が洩れてよく鳴けない。まるで荻に風が吹いている音のようだ。

『新潮日本古典集成 竹馬狂吟集 新撰犬筑波集』新潮社2020年

豊後名物庭の白砂
真白なる名の干飯の道明寺     
庭の白砂は有名な豊後の白砂である。
ーーいかにも真っ白で、まるで有名な道明寺の干飯のようだ。

枝のつと出る庭の白梅
枝を切れ臼の引き木にせむがため  
庭の白梅の枝がついと上に伸びている。
ーー梅の枝を切りなさい。茶臼の引木にするために。

花の零るる宮城野の萩
白砂の花は赤飯さながらに     
 
宮城野の萩の花がこぼれている。
ーー萩の花が白砂の上にこぼれているさまは、まるで赤飯のようだ。

月に柄をさしたらばよきうちはかな   宗鑑
十五夜の月に柄をさしたら、ちょうどおあつらえむきのうちわであろうよ。

同上

名の石を欠きとればよき火打かな  
 
有名な庭石を欠いて取ったなら、 ちょうどおあつらえむきの火打ち石であろうよ。                                  

大名と太郎冠者、亭主とのやりとりが、うまい具合に俳諧連歌の七五調にうまく収まるのです。七五調という形式だけではなく、話のやりとりがそのまま俳諧になっていることがよくわかります。 

『萩大名』の大名殿は和歌には通じていなくて、太郎冠者は冷や汗をかきまくるのですが、俳諧連歌のセンスは一級だったのではないかと思うのです。

☆「月に柄を…」の句の作者で俳諧の創始者と言われる山崎宗鑑について、
明石 白(歴史ライター)さんが記事にされています。俳諧にも教養が必要だったことがわかります。

(岡田 耕)

*参考文献(引用のほか)
野々村戒三 安藤常次郎『狂言集成』能樂書林1974年

写真/岡田 耕
   (横浜能楽堂)

ありがとうございました。




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